〈統合失調症の娘を病院に連れて行かず、自宅に閉じ込めて…それでも精神科医が「ご両親の判断は正しかった」と断言した理由〉から続く
統合失調症の姉と、病気を認めず、病院に連れて行かず、長期にわたって自宅で面倒を見る父と母。その日常をビデオに撮り続ける弟——。2024年公開のドキュメンタリー映画『どうすればよかったか?』は、そんな家族の記録である。
同作の監督・藤野知明氏が先月末、映画と同名の書籍『どうすればよかったか?』(文藝春秋)を発表した。
「姉は病気なのだから、病院に連れていけばよかった」という一見明解な正解や正しさは、当事者の現実に必ずしも結びつかない。
そうした「ままならなさ」を生きる家族について、監督であり、著者であり、そして当事者のひとりである藤野氏に話を聞いた。(全4回の4回目/1回目から読む)
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「(姉には)青春がなかったですね」「そんなこと言っちゃいけない」
――書籍で印象深いのが、お母さんが「(姉には)青春がなかったですね」との言葉をもらすと、お父さんは首を振って「そんなこと言っちゃいけない」と言うエピソードです。
藤野 その時、私は聞こえないふりをしていました。家族との色々な思い出はあるけれども、あの時のことは、今でも忘れられずにいます。
私自身のことを言えば、姉が統合失調症を発症したことで、それを機に両親の言うことの反対をやり始めました。そうしないと、姉と同じ落とし穴に陥ってしまうと思ったからです。いつの間にか「統合失調症にならないことが私の人生の目標」になってしまったと本には書きましたが、姉と同じように両親に束縛され続けるのを恐れるようになっていました。
――それで高校・大学時代にタルコフスキーの映画や宮﨑駿のアニメに惹かれていく様子が書籍に書かれています。その後、日本映画学校(現・日本映画大学)の録音コースを経て、映像の世界に入っていきます。
藤野 もともと私は研究者になるつもりでしたが、両親との関係が悪くなって、研究者に対する印象も悪くなりました。というのも、大学時代に仲のいい女性がいたのですが、家のことを話したら、連絡がつかなくなってしまった。そんなこともあって、結婚して家庭を持つことは難しいだろうから、それなら好きなことをやろうと思ったのです。
それでアニメ会社を何社か受けたのですが、ぜんぶ落ちてしまい、結局は住宅メーカーに就職します。横浜支店に配属されたのですが、ある日、営業の帰り道にたまたま日本映画学校を見かけたんです。それでそのまま願書をもらおうと受付に立ち寄って話を聞くと、監督コースは人気だというので、録音コースを選びました。
我が家でセルフドキュメンタリーを撮るのは無理だと思った
――その当時(1990年代中・後半)は、セルフドキュメンタリーが話題になった時代です。映画公開時のプロフィールに日本映画学校に通っていたとあるので、今回の書籍を読むまで、そうした時代性に触発されて『どうすればよかったか?』を撮り始めたと思っていました。
藤野 それこそ日本映画学校の1年先輩に『ファザーレス 父なき時代』の茂野良弥さん、1年後輩には『あんにょんキムチ』の松江哲明さんがいました。当時、自分の家族を題材にしてセルフドキュメンタリーを制作するのは、相当ハードルが高く、我が家では無理だと思った記憶はありますね。
――藤野さんの場合、映画にするつもりもなく撮っていたものが、結果的に劇場公開されます。
藤野 家の中でどうにか撮り続けていましたが、精神科医に説明する時に見てもらおうと思うものの、肝心の協力してくれる精神科医はなかなか見つからず、撮った私ですら見返さないものを撮影しているわけですから、無駄なことをしている感覚が強くあった。
姉が退院して状態がよくなったのがわかったので、これなら映像を公開する意義もあると思うようになりましたが、それでも自分が生きているうちに、自分が撮ったものが劇場公開されることはないと思っていた。というのは、姉に統合失調症を発症しているという病識が無かったので、公開は姉の死後になると思っていました。姉が女性の平均寿命まで生きると考えると、私と姉の余命は同じくらいでしたので、公開できる可能性は50%くらいだと思っていました。
――書籍で印象的なことの1つに、青春期に児童文学の『ゲド戦記』(ル=グウィン著)を読む箇所があります。
藤野 たとえば『巨人の星』のような日本の“スポ根”ものだと、困難に直面した時、「逃げちゃいけない」「立ち向かえ」となる。建前としては立派だけれども、実際にそうするのは難しいですよね。
だけど『ゲド戦記』(第1部「影との戦い」)は違いました。ひたすら逃げまくる。しかし向き直る。すると、だんだん相手が見えてくる。そして、いつかは問題と対峙しないと解決はしないんだと気づかされました。家族のことで悩んでいた私と、『ゲド戦記』の世界観は、重なる部分があったように思います。
96歳の人間の心境はわからない
――映画の最後は、96歳のお父さんと藤野さんの対峙です。ここまでは撮影者の藤野さんは基本的にフレームの外にいたのが、フレーム内に入り、お父さんと向き合って、問いかけます。「家族のドキュメンタリーを公開してもいいか」と。
藤野 母も姉も亡くなり、存命中の家族は父と私だけになりました。できるだけ、映画を公開することの承諾を当事者から得たほうがいいですから、父に「公開していいか」とカメラの前で聞いたのです。あの時、父がダメだとは、おそらく言わないだろうと思っていました。父は親として子供の仕事の邪魔をしたくないと80歳を過ぎてからはよく言っていましたから。
けれども、父の姉の体調に対する判断、行動を公にされることを、父は懸念していたと思います。複雑な思いだったと思います。だけど、やめてくれとは言わなかった。
――映画は、自分の子供の仕事の1つの到達点であり、同時に家族の姿を世にさらすことでもあった。お父さんは前者を優先したのでしょうか?
藤野 どういう心境だったか、96歳の人間の心境は、私にはわからないです。
『どうすればよかったか?』の問いに対する“正解”
――『どうすればよかったか?』の問いに対して、“正解”を求めるならば、「もっと早く病院に連れていけばよかった」との答えになります。しかし、どんな問題であっても、当事者は、その人が抱える事情や、その人を取り巻く人間関係の影響を受けるものです。本の帯にある「ままならなさ」とは、そのようなものではないか。本書の読後感としてそんなふうに思いました。
藤野 私自身は、1980年代の精神科病院のあり方や治療法に問題があったにせよ、早く病院に連れていくべきだという考えでいます。姉は2008年になって、ようやく治療を受けるわけですが、その時に効果のあった向精神薬は、実は1996年に認可されています。姉が統合失調症を発症した83年には、効果的な薬は確かになかったけれども、医療につながっていれば、12年早くその向精神薬と出会うことはできたはずです。
今回の書籍をつくる際にも、いろいろと考えました。1992年のことですが、私は家族の悩みを抱え、大学を留年もして、精神的にまいっていました。それで大学の相談室に行ったところ、カウンセラーに家族療法を勧められた。結局は、父がそれを拒否するのですが、あの時、もっとしっかりと両親と話し合っていれば、姉は医療とつながることができたかもしれない。もしそうなっていれば、1996年には効果のある薬を服用することができたかもしれない。そうしたら、姉には別の未来があったかもしれません。
閉じ込めるのは誰のためなのか?
――最後になりますが、書籍『どうすればよかったか?』の発売にあたって思うところは?
藤野 書籍では、映画では表現できなかったこと、たとえば1980年代の精神医療の実態や認識、統合失調症の患者に対する社会のスティグマ、収容主義が、私たち当事者や家族に影を落としていること、そして、そうしたことが父や母の判断に影響を及ぼしていたかもしれないということも書きました。
統合失調症になると、その人の時間や可能性を少し失うかもしれません。でも今の日本社会では、病気以外の人為的な要因でそれ以上のものを失うことになる。長期入院で帰る場所が無くなる人もいると聞きます。閉じ込めるのは誰のためなのか? 考えてみてほしいです。この映画や書籍がそうしたことのきっかけになればと思っています。









