3月4日(水)発売の道草家守さんの『花贄さまの初恋』。
皇都から離れた緑豊かな花森村で、一人孤独に暮らす少女・霜子。彼女には「ある秘密」があって――。霜子と晴晃の出会いを描いた、第一章の冒頭を公開します!
イラスト・花ヶ田
「花贄様、いらっしゃいますか」
その呼び名が自分を示すことに、霜子はいまだに慣れなかった。
少し滑りが悪くなった内玄関の引き戸を開くと、壮年の男、正次が立っていた。
絣の上着に股引という作業着姿の彼は、霜子が現れるなり視線をそらす。
胸に苦みがこみ上げてくるが、なんとか笑いかけた。
「こんにちは、どうかした?」
「実は母……トヨがぎっくり腰を起こし、しばらくこちらにこられそうにありません」
トヨは通いの女中だ。正次の母である彼女は、還暦を過ぎても一手に家のことを引き受けてくれていた。
数日前から腰を気にしていたが、とうとう痛めてしまったのだろう。
「それはお大事にして。あとで見舞いに……」
「いいえ必要ありません」
強い口調で遮られて、霜子は言葉を止める。
正次は気まずそうにしながらも、手ぬぐいを巻いた頭を深々と下げた。
「花贄様にご足労をおかけするのは、母も望みません。どうぞご容赦ください」
まるで華族の令嬢に接するような丁寧な態度に、霜子は苦笑するしかなかった。
「かしこまらなくて良いよ。ほら、私のどこに威厳があるの?」
あっけらかんと両腕を広げて、自分を示してみせる。
野良用の紺絣の長着に股引を穿いた姿は正次とそう変わらないし、黒髪は簡素にひっつめるだけ。十九になり娘の盛りと称して良いだろうが、敬われるような気品や雅さはないのは承知していた。
それに三年前までは、彼も霜子を自分の子のように可愛がってくれていたのだ。
だが正次は頑なに首を横に振る。
「いいえ、あなた様は鹿屋野家の祭神に選ばれた贄巫、『花贄』であらせられます」
きっぱりと言い切られた霜子は唇を引き結んだ。
わかっている。彼がこうなったのは、霜子が花贄──この国で尊いとされる贄巫の一人になったからだ。
「桜子様からもよく支えるよう言いつけられております。どうぞ花贄様におかれましては、お気を安らかにいてくだされば幸いです」
姉の名前を出されて霜子は怯む。
苦さを隠すために、ひっつめた髪の後れ毛を耳にかけながら続けた。
「……いいよ。これでも女子だもの、トヨが治るまで一人でなんとかする。惑い花の患者が来たときは知らせてね」
「それも小百合様が引き受けられると言って……」
正次がしまったと言葉を止めるが、霜子は凍りつく。
「そう、なの。野椎家の小百合さんが……」
なんとか応じた声はみっともないほど掠れていた。
焼きごてを当てられたように胸がじくじくと痛み出す。
惑い花の治療は、鹿屋野家の家業で、唯一霜子が役に立てるお役目だった。
なのにそれすら任せてもらえないどころか、知るのは霜子が一番あとだ。
惨めさが身に染みた。
「花贄様……」
せめて傷ついた気持ちを悟られたくない。
霜子はとっさに笑みを浮かべた。
「大丈夫。あ、いつものお裾分けだよね? ありがとう」
正次の傍らには野菜籠がある。彼は昔からの習慣で、家まで食材を運んでくれていた。
霜子が籠を持ち上げようとすると、慌てて手伝おうとした彼と手が重なる。
驚いた霜子は、つい気を緩めてしまった。
指先が熱を持ち、命と死の気配が燐光となって弾ける。
真っ先に中の野菜達が反応した。
ウドの葉が緑を帯びて背を伸ばし、かぶの根からは茎がすくりと立ち上がり、つぼみを付ける。根もないニラですら茎が生え、それぞれの花がぱっと咲き乱れた。
美しく、鮮やかで、決定的に異質だった。
自然ではあり得ない現象、霜子が花贄となった証だ。
反射的に見なければ良かった。顔を強ばらせた正次と目が合う。
──ああ、もう無理だ。
「ごめんなさい。じゃあ」
霜子は早口で言い残すと引き戸を閉めた。
逃げ戻ったのは居間だった。
室内は雑然としていた。書庫から引っ張り出してきた書物が積まれ、標本にするために作業中の植物や、古新聞の束が広がっている。
台所はもっとひどい。食べものを作ろうとして失敗した残骸が山になっている。
トヨがいないたった半日で、ここまで散らかってしまった。
花が咲いてしまった野菜籠をひとまず置いた霜子は、深々とため息を吐く。
強がってみせたものの、霜子は家事が苦手だった。
唯一綺麗にしている飾り箪笥には、桜子から届いた手紙を入れる箱と、額装されたセピア色の写真が鎮座している。一番幸せだった頃に家族で撮ったものだ。
前に座るのは、もういない両親。後ろに立つのは自信なげな自分と、顔立ちからして聡明そうな姉、桜子だ。
しょぼんとうつむいた先の畳から、緑の茎がしゅるりと伸びる。
見る間に細い花弁を広げて咲いたのは淡い橙色の金盞花だった。
なにもないところから、瞬く間に植物が生長して花が咲くなんてあり得ない。
あり得ないけれど、今の霜子にはそれが当たり前だった。
花贄の咲かせる花は感情に合わせて咲き、花贄以外は触れない。
慌ててしゃがみ込んで払うと、金盞花はまるで綿毛が散るように解けて消えた。
──どれだけ惨めで無力に感じようと、霜子はもう人ではないのだ。
「私は花贄なんだから、自分でなんとかしなきゃ。誰も頼っちゃだめ」
手を握りしめて言い聞かせ、今日の作業をするためにのろのろと立ち上がった。
植物は日々の手入れを怠れば、花や実の付き具合に如実に現れる。
霜子は勝手口から納屋に回ると、鍬を取り出した。
使い込まれた柄を握り、すべきことに思いを巡らせると、少し落ち着いてきた。
「今日は、植え付けのために畑を耕したあとは、薔薇の剪定かな。さぼっているから、早くやらないと」
前庭に出ると、花々は見事に咲きそろっていた。
花卉の栽培と研究は、鹿屋野家の仕事の一つだ。霜子の代になって大幅に縮小しているとはいえ、庭には花木や植物が溢れるほど植えられていた。
薔薇は様々な色合いが目に楽しく、日陰に咲く芍薬は楚々とした香りを漂わせている。敷石の両脇には、ネモフィラの青と紫蘭の紫があり、どこからか紛れた夕化粧が素知らぬ顔で桃色の花弁を広げている。
野生種も不思議と調和した庭は、霜子の密かな自慢だ。
花々の点検をするため足を止めた霜子は、ふと表門のほうに気を取られた。
伝統的な門かぶりの松が青々とした葉を茂らせる門だ。
その下に、男性がいた。
襟の高い褐色の上着と短袴という軍服に、左腰には軍刀を下げている。
軍帽を目深にかぶった彼は、霜子を見つけると大股で近づいてきた。
あっという間に霜子の前に来た彼は、見上げるほど大きく、思ったより若い。
「雄々しい」よりも「美しい」と称したくなる不思議な容貌だった。
意志の強さを表すような太い眉に彩られた双眸は、こちらを見透かすように澄んでいる。髪が陽に透けると黄金に見えるのが華を添えていた。
霜子は彼の全身から発散される独特の雰囲気に圧倒されて、鍬を握って硬直する。
「勝手に敷地内に入ってすまない。こちらに鹿屋野霜子さんはご在宅か」
低くよく響く声で投げかけられた言葉を理解するのに、一拍遅れた。
「霜子は私、ですが……」
おずおずと言い出すと、青年は目を丸くする。
戸惑うように、野良着を着込んだ少女の全身に目を滑らせた。
ゆっくりと瞬き、霜子のあどけなくも静謐な眼差しを見返す。
「君が、花贄であると?」
慎重に確認する問いが霜子は少しだけ痛かった。
だが「花贄」を訪ねてきたのであれば、迎えないという選択肢はない。
霜子は頭の手ぬぐいをほどくと、姿勢を正した。
「その通りです。私が鹿屋野の祭神に身を捧げし『花贄』、霜子と申します」
凜と宣言すると、青年はなにかを堪えるように唇を引き結ぶ。
そしてぐっと背筋を伸ばすとこう言った。
「お初にお目にかかる。俺は陸軍中尉、丹羽晴晃だ。本日は婚約者として挨拶に来た。……以後よろしく頼む」
生真面目な調子の言葉がうまく飲み込めず、霜子はぽかんとする。
「誰が?」
「俺が」
「誰と?」
「君と、だが」
婚約はいずれ結婚する男女が将来を誓った証に結ぶもの。
つまり、晴晃は霜子と結婚し──伴侶になると言っているのだ。
「…………えっ?」
霜子は威厳を保とうとしていたことすら忘れて、間の抜けた声を上げた。
とたん、ぽんっと軽やかな音が響く。
霜子が抱きしめた鍬の柄に、ろうと状の花が咲いた。
赤紫、白、黄色、赤など多彩な色をした花は白粉花だ。
一つだけではない。霜子の周囲にはさらに白粉花がぽぽぽんっと咲き乱れ、たちまち花畑になる。
晴晃の瞳が限界まで見開かれるのすら気づかず、霜子は大きな混乱に陥った。





