新しい国家主義的右派と向き合う

 いま日本を、保守と呼ばれる潮流が席巻している。「保守と呼ばれる」と書いたが、実際にこの勢力は保守であることを自称し、メディアもそのような政治的色合いのもとに彼らを描き出す。だが、私はそれに強い違和感を覚えるのである。彼らの実態は「国家主義的右派」と評するべきであり、そのありようは「真正保守」からは程遠い。むしろ対極にあると言っていいと思う。私は、日本近現代史を通じて培われてきた「真正保守」の地下水脈、それを担った政治家や思想家、そして彼らの哲学と実践を再興すべきだと考えてきた。日本社会に「国家主義的右派」が擡頭するいま、その考えは危機感に裏打ちされて、さらに切実なものとなっている。

 本書は、「国家主義的右派」が勢力を増す現代と向き合いながら、「真正保守」たる資格を有する存在を歴史の地下水脈のなかに辿り直そうとするものだ。現代との対峙にも力点が置かれるという意味で、私としてはとりわけアクチュアルな危機意識が込められた一冊ということになる。

 保守を考えるとき、私が特に重視してきたのは戦争観である。軽々に戦争を語ったり、戦争を煽りながら自らの立場や信条を強めようとする者は、真の保守と呼ぶに値しないと考えている。本書で取り上げた石橋湛山や池田勇人、前尾繁三郎、後藤田正晴といった政治家は、決して戦争をそのように論じなかったのである。

 本論に入る前に、まず直近の政治状況に目を向けてみよう。高市早苗政権が自己都合によって仕掛けた、解散・総選挙は、二〇二六(令和八)年二月八日に投開票を迎え、自民党が圧勝する結果となった。高市政権の勝利に至る過程に、私はこの国への深刻な思いを抱いた。

 高市はまず記者会見で、「高市早苗に国家経営を託していただけるのか、国民の皆様に直接ご判断をいただきたく思っております」と、解散・総選挙を自らへの人気投票とみなすかのような認識を示した。人気投票的な選挙を経れば、権力を恣意的に行使することができるというポピュリズム的構えをとったのだ。「国論を二分するような政策」とは、軍事拡大のための増税なのか、核保有に向けての地ならしなのか、憲法改正と緊急事態条項の新設なのか分からない。ただ、そこに、戦争への警戒心はまったく感じられなかったのである。

二つの保守主義

 ここで紹介したいのは、宏池会の結成メンバーであり理論的支柱であった前尾繁三郎の見識である。前尾は「真正保守」のあるべき姿を学究的に探り続けた政治家であったが、その主著『政の心』(毎日新聞社、一九七四年)のなかで、保守主義を二つに分けて考えるべきだと述べている。前尾の論を、私の理解を加えて整理すると次のようになる。

(1)生物が安全性を求める自己保存の本能に根ざし、慣れたものへの愛着に起因する「自然的保守主義」。これは平穏に暮らしを営むことを志向する庶民が自ずから宿している理念であると言える。

(2)「自然的保守主義」を基盤とするが、現存の社会秩序を維持しながら、漸進的、調和的に社会改革を実践しようとする「政治的保守主義」。これが急進化すると、「国家主義的右派」のような政治潮流となる。

 現在、高市に国民的な支持が集まっている状況は、国民が生活実感とともに持つ「自然的保守主義」が、高市に「政治的保守主義」の新しいあり方を期待しているという意味を持つのではないだろうか。あくまでも「期待値」としての意味が大きい。だが現実には、高市は「政治的保守主義」を真っ当に担うに足る政治家とは思えない。戦争の教訓を引き継ごうとする姿勢も見えず、むしろ「国家主義的右派」を志向しているように思われる。この齟齬は何をもたらすのだろうか。

 国民の側の高市支持には、既成の政治によって生活を踏みにじられてきた憤懣や、現状への説得力ある対抗軸を持つ野党が見出せないことへの諦観のような心理も込められているだろう。

 だが、高市の対中強硬発言が、中国に屈しない勇敢な姿勢として国民に受け入れられている状況を私は懸念する。高市圧勝は、真の保守の歴史観が消えつつある社会で成立した危うい現象だったのではないか。だからこそ私は、高市をはじめとした政治家たちの戦争観を問いたいのである。

後藤田正晴の指摘

 私が高市早苗という存在を意識したのは意外と古く、それは三十五年前のことになる。高市の名前を聞いたのは、後藤田正晴からであった。その頃、私は月に二回、後藤田の議員会館事務所、個人事務所、また自宅を訪ねて、評伝(『後藤田正晴 異色官僚政治家の軌跡』、文藝春秋、一九九三年)を書くための取材を続けていた。その際、二人でよく歴史談議や雑談も交わしたのだが、一九九一(平成三)年の押し迫った頃、後藤田がこう言った。

「週刊誌からPKO(国連平和維持活動)についての対談を頼まれて断っていたんだが、相手が高市早苗君ということになり、引き受けることにした。松下政経塾を出て、アメリカ連邦議会でスタッフとして働いていた若い女性なんだよ」

 私はそれ以上、後藤田に高市について尋ねなかった。なぜ後藤田が高市との対談に積極的であったのか、真相を聞かされることはなかった。対談は『週刊朝日』一九九一年十二月六日号に掲載された(「自衛隊の武力行使は認められない──後藤田正晴自民党代議士が叱る/聞き手・政治評論家 高市早苗」)。私はそれを読み、後藤田の意図がなんとなく理解できた気がした。

 当時、PKO協力法案が衆議院を通過しようとしており、国際貢献と国益の名のもとに、日本も国連の平和維持活動に協力すべきだという主張が政策として現実化しようとしていた。後藤田は「国際環境の変化のなかで、国際的な協力は、平和主義に立つ日本の国是をきちんと守ったうえで最大限やればいい。だが、軍事による協力は一切すべきでない」という立場を取り続けた。「自衛隊が丸腰で停戦交渉に行くならいい、その場合も自衛隊の三佐か一尉以上にすべきで、自衛隊をまったく送るな、と言うのではない。そこが社会党と違うところだ」とも言っていた。同時に後藤田は、戦争を知らない世代に、戦争の悲惨さと、それを繰り返してはならないことを説き続けようとしていた。

 その姿からは、戦争体験世代の理念と現実認識を読み取ることができた。現実をくぐり抜けているからこそ理念に実効性があるという意味で、それは石橋湛山の思考にも通じるし、もっと言えばこの戦争観こそが「真正保守」に特有の発想法であると私には思えた。

 後藤田が、高市を相手とする対談に臨んだのは、一つには、戦争を知らない世代との対話を求めたという意味があったのではないか。

 また、高市が松下政経塾出身であり、アメリカ連邦議会の下院議員のもとで勤務していたという経歴から、自分とまったく異なる価値観を持つだろうことを見て取り、そういう相手と、現下の安全保障について語り合うことに意義を感じたとも考えられる。

松下政経塾への違和感

 かつて私は、セゾングループ創業者で詩人でもある堤清二から、松下政経塾出身者が政治を仕切ることへの憂慮を聞いたことがある。二〇〇八(平成二十)年、日中平和友好条約三十周年を記念しての堤を団長とした訪中の途次でのことだ。堤は終戦後に共産党員であった時期があり、離党後、実業家で政治家でもあった父の堤康次郎が衆議院議長だったときに秘書を務めている。そののち大企業の経営者として、また文学者として活動していた。体制側と反体制側の政治を経験し、企業家、文学者の顔を持つ堤の視線には深みがあり、その言葉には説得力があった。

「松下政経塾設立趣意書」には「経営の要諦を体得した青年が、将来、為政者として、あるいは企業経営者など各界の指導者として、日本を背負っていく」とあるのだが、堤の憂慮とは、政治に企業の論理が入り込んで国民の目が不在となることへの警戒だった。また政治家が、真っ当な歴史観に裏打ちされた、平和を志向する国家観を持たないまま、企業内での出世志向と同じレベルで政界での自己実現を目指すことへの危惧でもあった。

 堤の見識は、高市が辿った軌跡にも触れ得ていると思う。高市は、後藤田と対談した翌年には政治家を志し、一九九三(平成五)年に衆議院議員に初当選している。当初は無所属であったが、一九九四(平成六)年には新進党結成に参加する。政治家としての初期はリベラル志向を有していたようである。その後、自民党に入党し、森喜朗、安倍晋三に近づき、右派へと転じていく。

 高市の転機は、一九九七年(平成九)年、歴史教科書問題をめぐって政界に右派的歴史観を据えることを目的に、中川昭一、安倍晋三らが中心となって立ち上げた「日本の前途と歴史教育を考える若手議員の会」の幹事長代理に就任した頃に訪れたのではないか。この議連は、同年に結成された右派社会運動団体「新しい歴史教科書を作る会」、また同年に設立された日本最大の右派団体「日本会議」とも連動し、今日の「国家主義的右派」潮流の一つの源泉となっている。

 この頃、高市は、政界における自己実現の道筋を、右派の思想潮流と右派人脈のなかに探し当てたように思う。

 後藤田対談の話に戻ろう。字面からも伝わるのであるが、後藤田は高市に噛んで含めるように語りかけている。その様子は、高市の背後に数多の年若い世代を見ながら話しているようにも感じられる。

後藤田 当時の戦争の中で受けた惨禍についてはその体験がない人とはまるっきり考え方が違う。いまの人は戦争ってものはどんなものか、本当に知ってるのか。テレビゲームやコンバットチームの戦いなんかを見て、戦と思われちゃあ困るよ。画面に映らない下は、いかに悲惨な状況なのか、本当にわかるか。それは戦の体験者でなければわからないんだよ。

 あるいは、戦争が終わった直後、占領下における屈辱というものがどれほど厳しいものか、ということがおわかりですか、と。あんなことは、二度と繰り返すべきことではない》

 この言が当時の高市にどれほど響いたか、誌面からはうかがい知れない。少なくとも活字化された部分では、高市は後藤田が語る「歴史」の話題に、ほとんど反応していない。高市は「政治評論家」という肩書きで誌面に登場しているのだが、PKOをめぐっても自らの定見があるようには感じられず、聞き手としては心許ないのだ。松下政経塾とアメリカで身につけた、経営に近い感覚で政治を捉え、その世界での自己実現を志向する若者といった印象だ。

 PKO活動に許されるのは丸腰での停戦監視までだと強調する後藤田に対して、グローバリズムが喧伝され始めた時代の申し子のように、高市は世情をなぞる問いを投げかける。

高市 しかし、米国でも英国でも、紛争中のところに出かけていきますよね。それは平和や自由という世界的な価値観を守る意識だと思うんです。

後藤田 それは大国の論理だね。世界的な価値観を守るというのは大義名分だ。石油権益をめぐる大国の争いが、湾岸戦争の背景にはあるのではないか》

 後藤田は高市に、アメリカ中心の世界秩序とは大国の横暴がまかり通ることでもあると繰り返し説き聞かせようとするのだが、これも高市にどう届いたかは分からない。ただ私は、この対談での後藤田との邂逅が、高市の体内に一片の記憶であっても残っていることを願う。衆院選で圧勝した高市にドナルド・トランプ米大統領が祝意を表明したことを慶賀する向きもあるが、高市が保守のリーダーたらんとするなら、耳を傾けるべきはトランプではなく、後藤田のような存在であろう。

 過去の対話を引用することに、若き日の高市をあげつらう意図はない。ただ、後藤田が意図した、世代や発想が異なる者へと戦争の惨禍を伝える努力が実ったわけではないことを、三十五年後のいまを見つめながら確認するのである。未完の営みが先人たちから託されている。安易なポピュリズムに流されず、歴史の教訓を踏まえ、現在の国民の暮らしを大事にし、左右の極端な思想潮流による強圧的な変革を拒み、漸進的に豊かさへと歩むことを目指す「真正保守」が、いまこそ求められているのだ。


「はじめに 「真正保守」の再興を求めて」より