世の中には、殺しやすい人間と、殺しにくい人間がいる。

 鉄壁のセキュリティシステムに護られているアメリカ合衆国大統領などは、殺しにくい人間の最たるものだろう。もちろん僕が相手にしているのは、政治家などではなく市井の人間たちだ。だからおおむね殺しやすい人間ばかりなのだけれど、それでもやはり難易度に差はある。

 簡単にいえば、一人きりになる時間があるかどうかで決まる。当然の話で、殺す際に目撃者がいては困るわけだから、決行する際には一人きりになってもらう必要がある。ところが世の中には、意外なほど一人にならない人間がいるのだ。たとえば、会社の社長さん。

 今、僕が依頼を受けている標的も、民間企業の代表取締役社長だ。決して規模の大きい会社ではないけれど、急成長を遂げた注目のITベンチャー。ビジネス誌にもたびたび登場しているから、僕の標的の中では有名人の部類に入る。会議と会合が社長の主な仕事なのだから、一人きりという状況はなかなかやってこない。

 それでも日頃の実直な仕事ぶりを神様が見ていてくれたのか、標的は見事な隙を作ってくれていた。その隙を確認するために、僕はここにいる。

 東急東横線武蔵小杉駅。渋谷まで二十分足らずで行ける、高級マンションの建ち並ぶエリアだ。今回の標的である春山宏昌は、監視を始めてから二回、ここを訪れている。今夜が三回目だ。彼の自宅は六本木だから、会社のある渋谷からは真逆の位置にある。なぜ通っているかというと、答は簡単。愛人がここに住んでいるからだ。

 愛人との密会に、社用車を使うわけにはいかない。ハイヤーを雇うのも気が引けるのか、今をときめくベンチャー企業の社長が、電車に乗ってやってくる。電車で来るということは、駅から愛人の住んでいるマンションまで、一人で歩いていくということだ。それがたった五分間でも、僕には十分だ。

 三回目の尾行で、春山が毎回同じ道を歩くことを確認できた。しかも、人通りもまばらな深夜。ここならば、殺害はたやすい。もちろん未来を完全に予測することは不可能だけれど、春山が次に愛人宅を訪れるときに、依頼を遂行することができるだろう。

 僕は満足して、武蔵小杉駅から電車に乗った。自宅や事務所に向かってまっすぐ帰るのではなく、迂回路を通ることにした。万が一ということもある。かなり遠回りになるけれど、一度横浜まで出てから、帰宅するとしよう。

 電車に揺られながら、スマートフォンで電子書籍を読んでいたら、メールの着信を知らせるメッセージが表示された。差出人は、塚原俊介。

 嫌な予感がした。塚原は、僕の旧友であると同時に、殺し屋業務の連絡係でもある。そんな彼が、仕事の準備中にメールをよこす以上、いい知らせであるとは考えにくい。

 僕は嫌な予感が肺の中に溜まっていくのを感じながら、電子書籍リーダーを閉じた。代わってメールソフトを起動する。メールのタイトルは『今度の飲み会の件』だった。本文を開くと、ごく短い文章が書かれていた。

『今度の合コンは、人数が集まらなかったから、中止ね』

 僕は唇を固く閉じて、うなり声が漏れるのを防いだ。あらかじめ、僕と塚原との間で決められている連絡方法。この文面は、中止指令を意味している。つまり、依頼人が春山宏昌殺害依頼を撤回したということだ。

 僕はひと言「残念」と返信して、メールソフトを閉じた。殺害依頼が撤回されたって?

 いったい、どうしたんだろう。

 * * *

「どういうことなんだ?」

 塚原が事務所に現れるなり、僕は訊いた。

「わからん」

 塚原はぞんざいに答えて、ソファに座る。僕は冷蔵庫まで歩いていき、缶ビールを二本取り出した。一本を塚原に渡す。お互い何も言わずに開栓して、冷たい液体をひと口飲んだ。

「伊勢殿は、中止の理由を教えてくれるわけじゃないからな。ただ、依頼人が春山宏昌の殺害依頼を取り消したいと言ってきたとしか聞いていない。俺は、その伝言を取り次いだだけだよ」

 僕は文句を口には出さず、ビールで飲み込んだ。

 僕は富澤允といって、都内で経営コンサルタントを営んでいる小市民だ。顧客は中小企業が多いから、収入は決して多くない。だからというわけではないけれど、副業で生活費を稼いでいる。その副業が、殺し屋稼業なのだ。

 なぜ小市民たる僕が殺し屋になったかはともかく、今まで標的の殺害に失敗したことはないし、警察に疑われたこともない。職業人としては優秀な方だと思う。そのせいか、安定して仕事をもらえるし、おかげで楽な暮らしができている。

 といっても、僕自身が営業活動を行っているわけではない。僕と依頼人の間には連絡係が二人介在している。依頼人と直接会うのは、伊勢殿と呼ばれている人物だ。伊勢殿とは、僕は会ったことがない。伊勢殿は、受けた依頼を塚原に伝える。そして塚原が依頼内容を僕に伝えるのだ。

 だから塚原は、なぜ依頼人が中止指令を出したのか知ることはない。彼が「わからん」のひと言で済ませたのも当然なのだ。

「久しぶりだな。中止指令は」

 僕の考えを読んだのか、塚原が真面目な口調で言った。「確か、三回目だと思う」

「そうだな」僕もうなずく。「依頼後に翻意する気持ちは、わからなくはない。依頼が実行され、殺し屋が逮捕された場合、自分も芋づる式に捕まってしまうかもしれない。殺人の依頼は、実際の殺人と同じ罪の重さになる。前金を捨てて、危ない橋を引き返そうと考えても、不思議はない」

 塚原が薄く笑った。

「俺だったら、三百万を捨てる気にはならないけどね」

 殺人の料金は、六百五十万円だ。僕が依頼を受けると、前金としてまず三百万円が支払われる。そして無事に任務が完了したら、残金の三百五十万円が払い込まれる。そして前金を支払った後に翻意しても、前金は返却されないルールになっている。

 三百万円は決して低い金額ではない。倹約すれば、それだけで一年間暮らせてしまうほどだ。塚原が捨てたくない気持ちもわかる。

「まあ、いいさ。僕の立場からすれば、手を汚さずに三百万が手に入ったんだから」

「そうだな」塚原の笑顔がやや意地の悪いものになった。「おまえが有名人をどう捌くか、興味があったのに」

「ひどい奴だ」僕は頭の後ろで両手を組んだ。

「標的の春山宏昌は、株式会社『ぷらたん』の代表取締役社長だ。ここ数年で急成長したIT企業だな」

 塚原がげっぷしながら宙を睨んだ。

「ぷらたんって、グルメサイトだよな。利用したことはないけど」

「そうだ。通り一遍の店舗情報や口コミ情報を載せているだけじゃなくて、ユーザーが店の好みを入力したら、ネットに散乱している情報を解析して、ベストマッチの店を紹介する。同じようなサイトは他にもたくさんあるけれど、ぷらたんが開発した検索エンジンは、かなり性能がいいらしい。ユーザーの満足度が極めて高いと評判になって、今は月間十億以上の検索実績を誇っている。業界でも、トップクラスだな。ちなみに『ぷらたん』とは『プライベート・タン』の略だ。個人的な舌という意味だから、個人の好みに徹底的に合わせたサイトにぴったりの名前だと思う」

 塚原が大きな目でこちらを見た。「よく調べてあるな」

「これでも、経営コンサルタントだからな。注目企業の情報くらい押さえてある。だから今のは、依頼を受けてから慌てて調べたわけじゃないよ」

 途端につまらなそうな顔になった。「なんだ。公私混同だったのか」

 公私混同とは、本業で得た知識を副業に使ったという意味だろう。正しいとはいえなくても、間違っているともいいがたい表現だ。塚原が表情を戻した。

「ともかく、急成長したITベンチャー企業の社長さんだ。敵が多くても不思議はないな」

 僕はすぐに片手を振った。「動機に踏み込む気はないよ」

 この仕事をやっていくためには、肝に銘じておかなければならないことがある。それは、依頼人に関心を持ってはいけないということだ。依頼人のことを知ると、どうしても感情移入する。いわば、依頼人を我が身に憑依させるわけだ。依頼人の情念を宿したまま実行に移したら、余計な雑念が入ってしまう。雑念は失敗につながる。動機など、依頼人の情念の最も濃い部分だ。決して、知ってはならない。

「まあ、春山はワンマン社長で有名だけどね」

 一般的な話でお茶を濁すことにした。「春山は、起業者を多く輩出することで有名な、東京産業大学の出身だ。在学中に今のサービスを思いついて、三人の後輩を率いて起業した。件の検索エンジンは春山一人で開発したそうだし、後輩たちは共同創業者というよりは、ただの手伝いとして雇われたようなものだったらしい。だから誰一人、春山には逆らえない社風だと聞いている」

 塚原が嬉しそうな顔をした。

「それはまた、恨みが溜まりそうな環境だな」

「それはどうかな」僕はまた片手を振る。「社長が一人で何でもやってくれたら、部下は何も考えずにいられる。創業メンバーなんだから、自社株を持っていることだろう。これだけ成長したんだから、含み益は相当なものだ。その境遇を自ら放棄しようとはしないと思うぞ」

 深入りを避けるための発言だった。話に乗ってこない僕に、塚原は不満そうな顔をした。

「依頼は、もう取り消されたんだぞ。おまえが春山を殺すことはないんだから、誰が依頼したかを考えてもいいんじゃないのか?」

 正論だ。

「そうなんだけどね。習い性になってるんだよ」

 僕は席を立って、書棚に向かった。薄い雑誌を抜き取る。週刊ビジネス誌だ。応接セットに戻って雑誌を塚原に手渡した。

「半年ほど前の号だけど、これにぷらたんの記事が載っている。わりとページを割いて紹介してるよ」

 塚原がページをめくった。この雑誌は定期購読しているから、ぷらたんの記事が載った号が手元にあっても、怪しまれることはない。

「どれどれ――ああ、これか。確かに、三人の取締役がいるな。技術担当の浦辺、運営担当の柾、財務担当の淵上か。揃いも揃って、頼りなさそうな顔をしてる」

 わかりやすすぎるコメントに、思わず笑ってしまう。

「それは、事前情報から色眼鏡をかけただけだろう。殺し屋が、最もやってはいけないことだ」

 旧友は仏頂面を返してきた。「そんなもんかね」

「そんなもんだよ。ともかく――」僕は塚原から雑誌を受け取った。「仮に彼らが春山に不満を持っていたとしても、春山の死は自分たちの破滅につながる。金の卵を産む鶏を、自分で殺したりはしないだろう」

「それもそうか」

 そう答えて、塚原はビールを飲み干した。そこでぷらたんに関する話題は終わった――はずだった。

「仕事が来たぞ」

 事務所にやってきた塚原は、開口一番そう言った。

 僕は思わず顔を上げた。科白自体はいつもと同じだけれど、口調が違っていたのだ。顔を見る。塚原は無表情だった。意志の力で表情を隠しているようにみえる。僕は何も言わず、次の言葉を待った。普通なら、標的の名前と素性を口にする。はたして塚原は、いつもと同じことをした。

「標的は春山宏昌。ぷらたんという会社の社長をやっている」

 僕はすぐには反応できなかった。たっぷり二秒静止してから、ようやく口を開けた。

「……えっ?」

「そういうことだよ」

 塚原はどっかりとソファに座った。「中止指令が出た標的に、また依頼がかかった」

 壁に掛けたカレンダーを見る。中止指令から、一カ月しか経っていない。

 大きい目で僕を睨んだ。「どうする? この仕事、引き受けるか? 三日以内に返事しなけりゃならないが」

 試すような、あるいはからかうような口調だったけれど、不快には感じなかった。塚原の目にもまた、戸惑いの色が浮かんでいたからだ。

「引き受けるよ」僕は即答した。「でも――」

「でも?」

「すぐには決行しない。もう少し周辺を調べてからにする」

「ほう」塚原が目を剥いた。元々目の大きな塚原がそんな顔をすると、妖怪じみていて怖い。この男、区役所で高齢者の生涯学習を担当している。まさか、こんな顔で高齢者を睨みつけていないだろうな。夢に見るぞ。

「余計な情報は入れないんじゃなかったのか」

「本来は」僕はそう答えた。「でも、はじめてのケースだからね。少し慎重になった方がいい。この依頼人は、二度にわたって翻意したわけだ。一度は殺すのをやめたのに、やっぱり殺そうと思ったわけだから。罠とはいわないまでも、余計な変数が加わっているのは間違いない。前金が入金されてから二週間以内に決行する取り決めだから、逆にいえば二週間の猶予があるわけだ。その間に、春山とぷらたんの置かれた状況を調べてみる」

「そうか」塚原も納得顔になった。「その方がいいかもな」

「心配するな」僕は友人の肩を叩いた。

「依頼を受けた以上、状況がどうあれ、きちんと実行するよ。おまえや伊勢殿に迷惑をかけることもない」

 一週間後、塚原が様子を窺いに現れた。

「首尾はどうだ?」

 殺害の実行は僕一人の仕事だけれど、依頼を受けてからの塚原は、まめに事務所に顔を出して、状況を確認する。連絡係としての責任感なのか、友人として心配してくれているのか、はたまた単なる野次馬根性なのか、その真意はわからないけれど。

「上々だよ」コーヒーメーカーに水を入れながら、僕は答えた。土曜日の昼間だから、アルコールはなしだ。

「ほほう」塚原が大きな目を光らせた。「上々ってことは、何かわかったのか」

 しかし僕は首を振った。「いや。全然」

「えっ?」

 きょとんとする旧友に、僕は微笑んでみせた。

「障害になるような、変なファクターは見つからなかったってことだよ。だから安心して仕事ができる」

「………」

 納得できていない顔。僕も別に焦らすつもりはない。コーヒーが入ったところで説明を始めた。

「二度目の依頼を受けてから、ぷらたんについて、本格的な調査を開始した。とはいえ企業の調査だから、殺し屋ではなく経営コンサルタントの仕事だ。他企業の事例を調べることは珍しくないから、表立って動いても怪しまれることはない」

「ふむ」

 コーヒーをひと口飲んで、塚原が相づちを打つ。

「先月見せた雑誌は半年前のものだけれど、業績はますます好調なようだ。ただ、そのせいで会社は岐路に立たされているらしい」

「岐路って?」

「今以上に成長するためには、どんな道を選ぶかってことだよ」

 塚原は公務員だ。民間企業の活動にはあまり詳しくない。ここは丁寧に説明してあげよう。

「ぷらたんは、元々はベンチャー企業向けの投資家から得た資金で起業した。成功したら、今度は大手銀行が貸してくれるようになった。銀行からの資金でますます大きくなったわけだけれど、更に成長するにあたって、春山にはいくつかの選択肢があった」

「なんだ?」

「ひとつは、上場することだ。新興企業向けの市場であれば、すぐにでも上場できるだけの実績を残している。もしぷらたんが上場したら、誰もが先を争って株を買うことだろう。そうやって得た資金で、会社をさらに大きくすることができる」

「ふむ」塚原がまた言った。「真っ当な選択に見えるな」

「でも、社内には反対意見もある。上場すれば、自分たちだけで業務がコントロールできなくなる。どんな奴らが株を買うかわからないからな。株主総会で揉めるってニュースは、聞いたことがあるだろう。財務担当の淵上取締役が反対しているそうだ。我が社の強みを活かすなら、資金よりもフットワークの方が大切だとね」

「うーん」塚原が頭を掻いた。「財務大臣なら、真逆のことを考えそうだけどな」

「その意見には賛成だけど、淵上が反対しているのは事実だ。自分たちが時代の風雲児たるベンチャー企業のままでいるべきだと考えているのかもしれない」

「そうかな。それで、他にも選択肢はあるんだろう?」

「ああ」僕はコーヒーを飲んでから先を続けた。

「前に、ぷらたんと同じようなサイトはたくさんあるって言っただろう? そのうちのひとつに、『ぐるめ八目』っていう成長著しいサイトがある。そことの提携話が浮上したんだ。本来はライバル関係にあるはずなんだけど、業界の集まりで社長同士が会って、意気投合したらしい。もともとぷらたんは、価格設定が高めの、おしゃれな店を得意としている。一方のぐるめ八目は、大衆食堂や居酒屋に強みを持っている。競合といっても守備範囲が微妙に違うから、ケンカするより仲良くした方が得だと考えたようだ。将来の合併を見据えた業務提携の話が進んでいる。どちらも未上場企業だから、合併を見据えるのなら、上場はさらにその先になるだろうけど」

「何とか話についていける」難しい顔をして塚原が言った。「でも、それにも反対意見があるのか?」

「ある」僕はビジネス誌をめくって、針金のように細い人物を指し示した。

「技術担当の浦辺取締役が反対している。いくら将来の合併を念頭に置くとはいえ、先のことなんてどうなるかわからない。虎の子の技術をライバル会社に公開するなんてという気持ちは、わからなくはない」

「虎の子の技術っていっても、春山が作ったプログラムなんだろう? 浦辺がやったわけじゃない」

「何もかも一人でできるわけじゃない」僕は優しく友人の誤解を訂正した。「起業した時点では、春山一人の仕事だったのかもしれない。けれど会社が大きくなって、社長業務が大変になってくると、技術開発まで一人でできるわけがない。大きな方向性は春山が独断で決めていても、実際の開発作業は浦辺をトップにした技術陣が行っている。自社技術を出したくない気持ちはわかる」

「そういうものなのか。選択肢は、まだあるのか?」

「あるといえば、ある。現状維持という選択肢が」

「現状維持? それじゃあ、伸びないんじゃないのか?」

「伸びなくても、落とさないことはできる」

 僕はそう答えた。

「情報サイトの価値は、閲覧数と顧客満足度で決まる。ぷらたんの場合、閲覧数はうなぎ登りだけれど、顧客満足度の値が少しずつ落ちてきているんだ。もっとも客の要求は際限がないから、どんなサイトでもそんな傾向はあるらしいけど。ともかく、やれ上場だ提携だという前に、検索エンジンを磨き直せという意見が社の内外にあるらしい。これはこれで、正しい意見だ。しかし運営担当の柾取締役が反対している。実際の運営に携わっているから、顧客満足度の低下は検索エンジンの問題ではなく、市場の変化とかもっと大きなことに原因があるのではないか。そんな風に主張しているそうだ。上場や提携といったレベルの大改革をすべきだと考えているのかもしれない」

「難しいな」実際に塚原が腕組みをした。「確か春山はワンマン社長だったよな。奴が決定したのなら、誰も文句は言えないはずだ。でもそれぞれが主張しているところをみると、春山はまだ決めていないということだな。どうなりそうなんだ?」

「そうだな」経営コンサルタント用の調査ファイルをめくる。

「先月監視していたときには、銀行に行くことが多かった。その頃は、上場を考えていた可能性がある。でも監視を再開してからは、この一週間で、恵比寿に三回も行っている。恵比寿は、ぐるめ八目の本社がある場所だ。だから、春山は上場から提携に舵を切ったのかもしれない。ただ、昨日相手の本社を出るところを見たけれど、ものすごい仏頂面をしていた。提携の条件調整が難航していると想像できる」

「じゃあ、現状維持か」

「それも考えにくいんだよな。とにかく、いけいけどんどんがベンチャー企業経営者の特徴だから」

 説明しながら、僕はふうっと息をついた。

「本当に、社長って種族はパワフルだよ。昼間は分単位のスケジュールであちこちに顔を出して、夜になったら会合や接待だ。夜のスケジュールがない日には素直に家に帰るかと思ったら、今度は愛人宅だ。僕にはとうてい真似できない。毎日あれほど走り回らなけりゃならないのなら、いくら高給取りでも社長業なんて願い下げだね。殺し屋の方がずっとマシだ」

「比べる方が間違っている」

 塚原が笑って、すぐに何かに気がついたような顔になった。

「そういえば、春山には愛人がいるんだったな。学生時代に起業して、まだ新進気鋭といわれる歳なんだろう?」

 問われて、あらためてビジネス誌を指さす。春山のプロフィールが書かれた箇所だ。

「二十七歳だ。起業してから、大学を卒業すると同時に、その頃の彼女と結婚している。でも忙しすぎるせいか、夫婦仲は冷え切っているそうだ。愛人は、社員だよ。広報を担当している、なかなかの美人だ」

 塚原が呆れた顔をした。「そんなことまで、雑誌に書いてあるのか?」

「企業のゴシップ専用サイトがあるんだよ。ほとんどは価値のない妄言だけれど、中には重要な事実が書かれていたりする。丁寧に拾っていけば、有益な情報が手に入る。ちなみに愛人が美人だというのは、僕がこの目で見て確認した事実だ」

「そうか」美人という愛人の顔を想像しようとして失敗したのか、塚原は眉間にしわを寄せた。

「ともかく、この一週間の調査で、春山を殺す障害はないと判断したんだな? 依頼人が一度ストップをかけながら、再度依頼してきた理由はわからなくても」

「そういうことだ」殺し屋の言葉は簡潔だ。「ぷらたんが上場しようが、ライバルと提携しようが、現状維持のまま技術を磨き直そうが、そんなことはどうでもいい。というか、どんな選択をしようと、僕の業務に影響はないと判断した。次のタイミングで決行するよ」

 具体的な日時や場所については言及しなかった。殺害方法もだ。実務は僕の担当だ。連絡係である塚原を巻き込むわけにはいかない。

 塚原がコーヒーを飲み干した。

「わかった。吉報を待っている」

「大船に乗った気でいてくれ」

「そうするよ――おっと」

 ポケットに入れていたスマートフォンが、軽やかな音を立てた。連続して鳴らなかったから、通話の着信ではない。ということは、メールかSNSのメッセージだろうか。

 塚原がスマートフォンを取り出し、液晶画面を見つめる。途端に、表情が険しくなった。「ちょっと失礼」と言いながら、部屋の隅に行く。画面を見る時間は、ほんの数秒だった。スマートフォンをポケットに戻すと、応接セットに戻ってきた。

「おい」まるで親の仇のように僕を睨みつける。

「伊勢殿から連絡が入った。依頼は、撤回されたそうだ」

「撤回されたっ?」

 僕としたことが、オウム返しの反応しかできなかった。今、塚原は何て言った?

「中止だよ」塚原はまたソファに座った。「伊勢殿から連絡が入った以上、すでに決定事項だ。富澤が春山を殺す必要は、なくなった」

「………」

 僕は返事ができなかった。どういうことだ? 春山の周囲に、いったい何が起きている?

「ともかく」塚原が天を仰いだまま言った。「これで、また前金三百万はいただきだ。不労所得を得られたわけだから、けっこうなことだ」

 紙に書いたものを読んでいるような口調だった。殺人の報酬である六百五十万円のうち、塚原と伊勢殿の取り分は、それぞれ五十万円だ。今回のような前金のみの受け取りでは、二十万円としている。依頼の取り消しが二回あったわけだから、二人とも合計四十万円の収入があったことになる。けっこうな収入だ。それでも塚原が喜んでいる様子はなかった。

「気に入らないな」

 首の角度を戻して、真っ直ぐに僕を見つめた。まるで僕が依頼人であるかのように。

「一度殺すと決めたのなら、どうして最後までやり遂げようとしない? 三百万を無駄にしてまで。しかも二回だから、合わせて六百万だ。それなら、料金全額に近い。依頼人はその優柔不断さのせいで、金を取られた上に春山を殺せなかったことになる。いいことは何もない」

 なるほど。依頼人に感情移入して怒っているのか。気持ちはわからないわけではないけれど、安易に与するわけにはいかない。悩んだ末に、依頼を取り下げる。以前塚原に言ったとおり、その心の動きは理解できるものだ。しかし二回となると、どうだろう。何か明確な意図があるのではないか。僕がそう指摘すると、塚原は唇を歪めた。

「意図って、どんな意図があるっていうんだ。依頼人がどんな金持ちか知らんが、前もって六百五十万を用意できて、そのうち三百万を捨てるなんて、まともな金銭感覚じゃない。というか、殺害依頼をあまりに安易に考えすぎてるんじゃないのか」

「そうかもしれない」

 僕は曖昧に返事をした。安易。優柔不断。確かにそのとおりだと思う。でも、僕にしろ塚原にしろ、これほどの違和感があるのだ。依頼人のレベルにすべての責任を負わせないで、違和感の正体をもっと追求するべきではないのか。

「僕は、もうちょっと春山を監視してみるよ」

「えっ?」塚原が瞬きをした。「もう殺さないのに、なぜだ?」

「わからない」僕は本音を言った。「根拠はないけど、背景がわかった方が、今後の業務に役立ちそうな気がするんだ。それに──」

「それに?」

 僕は連絡係に笑ってみせた。

「三回目があるかもしれないだろう?」