午後十一時。僕は暗がりで春山を待っていた。今夜は、春山が愛人宅を訪問する日なのだ。
二回目の中止指令が出てから、はじめての愛人宅だ。まだ三回目の依頼は来ていない。だから僕が春山を殺すことはない。それでも、ちょっとした準備はしてある。今夜でなくても、いずれ役に立つかもしれない準備を。
春山が愛人のマンションを出た。ここから武蔵小杉駅まで同じルートを歩いていくのが、これまでの行動パターンだ。僕ならば、ここでは襲わない。夜遅いとはいえ、通りにまったく人影がないわけではないからだ。加えて周辺のマンションにも照明が灯っており、路上での犯行は目撃される危険性がある。
僕が着目したのは、春山が途中、児童公園を横切ることだ。その方が近道だからだ。夜中の児童公園に人影はないし、周囲に木々が植えられているから、外からも見えにくい。本来、春山が公園に入ったところで殺害するつもりだった。僕は先回りして、公園の陰に身を潜めた。
三回目の依頼はあるかもしれない。それならそれでいい。また準備をして実行するだけだ。三回目のストップがかかったらかかったで、また三百万円をいただけば済む。しかし殺し屋稼業としては、もっと考えなければならないことがある。それは、三回目の依頼がなかったときのことだ。
春山が児童公園に現れた。歩調に元気がない。日々の激務に加えて、愛人宅で酒を飲み、ベッドを共にしたのであれば、疲労するのも無理はない。まあ、それは彼自身が選択したことだ。僕が口出しすべきことではない。
春山が公園の端に沿って歩を進める。やはり疾しいことをしているという意識があるのか、中央を突っ切らない。これまた、いつもどおりの動きだ。僕は動かない。砂場の横を通り、滑り台の脇を通り抜けようとした。
そこに。
影が動いた。滑り台の陰に隠れていた人影が、春山の背中に向かって突進していった。
春山は、完全に油断していた。どうすることもできず、二つの影がぶつかった。しばらく静止していたけれど、やがて片方の影が地に伏した。春山だ。
滑り台の横には、男が佇んでいた。手に何かを持っている。弱々しい公園の外灯でも、僕にはそれが何かわかった。光を反射するもの。ナイフだ。
男が身体の向きを変えた。公園の出口に向かって駆け出そうとした。逃げるのだ。
そうはさせない。
僕はスリングショットを素早く構えた。いつもの鉄球ではない。子供が遊びに使う、ゴム製のスーパーボールだ。男めがけて撃つ。狙いは誤らなかった。放たれたスーパーボールは男の後頭部に命中し、男は前方に倒れ込んだ。
勢いがついていたから、顔面を護らないヘッドスライディングのようになってしまったようだ。気絶はしていないようだけれど、頭を両手で押さえて身もだえている。転がって、仰向けになった。それで、顔面が外灯に晒された。離れた場所からも、顔だちが確認できた。間違いない。ビジネス誌に載っていた顔だ。
男は、運営担当の柾だった。
「それはつまり」事務所で塚原が言った。「柾が優柔不断な依頼人だったってことか?」
僕はゆっくりと首を振る。「いや。違う」
次の日の夜。ニュースを観た塚原が、事務所に駆け込んできた。ニュースとはもちろん、株式会社ぷらたんの春山社長が、取締役の柾に刺された事件のことだ。
最近は、深夜でも犬の散歩をする飼い主が少なくない。そんな一人が、公園で犬を散歩させていて倒れている二人の男性を発見したのだ。警察に通報し、春山は救急車に乗せられ、柾は身柄を拘束された。
「命に別状はないようだよ」
缶ビールとビーフジャーキーを用意しながら、僕は言った。
「やっぱり、素人はダメだな。確実に急所を攻撃しないと、人間は簡単には死なない。凶器を持ったまま逃げるのもアウトだ。誰かに見られたら、言い訳できない。絶対に足がつかない凶器を用意して、その場に捨てるのが正しいやり方だ」
「いや、そういう問題じゃないだろう」
缶ビールを受け取りながら塚原が言う。「結局、一体何だったんだ? それに、どうして富澤が事件現場に立ち会うことができたんだ?」
「そうだな」プルタブを開けながら、僕は考えをまとめた。「まず、一般論からいこうか」
「一般論?」
「そう。人は、どうして殺し屋に殺害を依頼するんだろうな」
「………」
塚原は答えない。答えられないというより、どうして唐突にそんな問いかけがなされるのかといった顔だ。
僕はビールをひと口飲んだ。
「僕は依頼人と接触しない。動機を知ることもない。それでも何人も殺していると、なんとなく見えてくるものがある。人間は、恨みや憎しみでは殺し屋を雇わない。そのような動機だと、自ら手を下そうとする。殺し屋を雇うための条件は、僕の考えでは、相手が生きていたら、明確かつ具体的な不利益が生じることだ。たとえるならば、家の軒下にスズメバチが巣を作った場合。このまま放置すれば、刺されてダメージを負うという、明確かつ具体的な不利益が生じる。だから巣を駆除しなければならない。ただし素人が安易に駆除しようとすると、かえって危険だ。だから、専門の業者に頼む。それが殺し屋を雇う意味だ」
「いちいちもっともだな」塚原もビールを飲みながら肯定した。「それで、その意味が今回の事件にどう関係してくるんだ?」
「明確かつ具体的なところだよ」僕はそう答えた。ビーフジャーキーの包装を破って、友人に勧める。
「恨みや憎しみは、相手が生きているうちは決して消えることはない。なんとかして相手を殺そうとするだろう。この場合は、殺すことそのものが目的なんだから。でも、殺し屋を雇う理由は違う。明確かつ具体的な不利益が生じないことがわかったら、殺す必要はなくなる。スズメバチのたとえでいえば、勝手に巣からいなくなってしまえば、別に殺さなくていいんだ」
「うーん」塚原がうなった。考えをまとめる間、ビーフジャーキーを嚙む。飲み込んでから、口を開いた。
「確かに、そうかもな。じゃあ、今回の依頼人の場合は、どうだったんだ? 明確かつ具体的な不利益が生じ、一旦は去り、また生じ、また去ったというのか? なんだ、そりゃ」
「そこだ」僕もビーフジャーキーをひと切れ取った。
「一連の流れで僕たちが不審に思ったのは、一旦は殺害を決意したはずなのにあっさり翻意するという優柔不断さと、前金三百万円をあっさり捨てる金銭感覚だ。このうち前者はスズメバチ理論によって、ある程度納得できる。では後者はどうだろう。この仕事をやっていると、ときどき話題に出るよな。東証一部上場企業社員の平均年収ほどの金額を、依頼人はどうやって工面しているのかと。塚原が言ったように、個人の感覚ではいかなる事情があろうと、自分の金をどぶに捨てるのは勇気がいる。でも、自分の金じゃなかったら、どうだろうな」
塚原が唾を飲み込んだ。「会社の、金……?」
僕はうなずく。
「そう仮定してみた。もちろん依頼人が誰かはわからない。関係の冷え切った奥さんかもしれないし、愛人の立場を強要された広報部の社員かもしれない。ライバル企業かもしれないし、その他有象無象(うぞうむぞう)かもしれない。でも、会社の金をある程度自由にできる立場の人間が、標的のすぐ傍にいる。僕は三人の取締役を、依頼人に仮置きしてみた」
「三人のうち、誰かか」
塚原が言い添え、僕は薄く笑ってみせた。
「ここで気になったのが、財務担当の淵上だ。おまえが指摘したように、財務大臣は金庫の金をいかに安定させるかを気にする。そんな彼が、大量の資金獲得が確実視される上場に反対するのは、奇異に思えた。ここで、彼を依頼人としてみよう。仮にぷらたんが上場した場合、淵上が明確かつ具体的な不利益を被るとしたら、それは一体何なのか」
僕の言いたいことがわかったようだ。塚原はゆっくりと答えた。
「不明朗な会計、もしくは会社の金の使い込みか」
「いいところだ」僕は人差し指を立てた。「もちろん今だって財務諸表は作成して、銀行に提出しているはずだ。けれど会社が利益を出している間は、銀行も細かいところは見ない。しかし上場したら、そうはいかない。適当な監査役が斜め読みで捺印することはない。会計におかしなところがあれば、簡単に見つかってしまう。少なくとも、淵上はそう考えた。このままでは自分は破滅する。だったら、そうなる前に上場を推し進めようとする春山を亡き者にしてしまえば、自分の安全は保たれる」
「優柔不断な依頼人は、淵上だったと?」
僕は曖昧に笑った。先を続ける。
「ところが、依頼は撤回された。淵上の身に、不利益が生じることはなくなったからだ。それは、春山が上場しないことを決めたからではないか。他社との業務提携だけでは、財務にメスは入らない。合併すれば話は別だけど、それはまだ先のことだ。いくらでもごまかせる。だったら、殺す理由は何もない。それどころか、春山にはまだまだ働いてもらわなければならない。中止指令は当然の判断だ。会社の金を使って依頼をかけたのなら、三百万円くらいどうということはない」
「淵上が……いや、待て」
塚原が身を乗り出した。「おまえの話はもっともらしいけど、まだ足りない。殺害依頼は、もう一度かかったんだ。春山が、あらためて上場を決意したのか? 監視を再開したおまえの口から、そんな話は出てこなかったぞ」
「そうだね」僕は塚原が身を乗り出したのと同じ距離だけ後ろに身を反らせた。
「この一週間で、春山は三回もぐるめ八目の本社に行っている。春山がぐるめ八目との提携に舵を切ったのは明らかだと思われる。思い出してほしい。提携に反対していたのは、誰だ?」
塚原が身を引いた。「技術担当の、浦辺……」
「そうだ。浦辺はなぜ提携に反対していたのか。僕は、虎の子の技術がライバル企業に流出してしまうのを嫌ったからだと考えた。でもそれは、会社の不利益であって、浦辺個人の不利益ではない。さらに思い出してくれ。ぐるめ八目は、最近成長著しいと言った。なぜだと思う?」
ふうっ、と塚原が息を吐いた。「浦辺が、自社技術を流出させていた」
「そうかもしれないな」僕もビールを飲んで、息を吐いた。
「もし両社が提携したらどうなるか。技術交流が行われる。そこで春山は知ることになる。自分が開発した検索エンジンのコードを、かつてのライバル会社も使用していることを。ワンマン社長のことだ。激怒して犯人捜しが行われることは、間違いない。放っておけば、身の破滅だ。会社の金を使って身の安全を図ろうとしても、不思議はない」
「しかし相手の本社から出てきた春山は、仏頂面だった」
塚原は缶ビールを飲み干した。自分で立って、冷蔵庫から新たに二本取り出す。一本をこちらに差し出し、僕は礼を言って受け取った。
「交渉は不調に終わり、ぐるめ八目との提携の目はなくなった。となると、浦辺もまた、春山を殺す必要がなくなる。技術の流出はばれないからな。それが再度の取り消しの理由かもしれない」
「一回目の依頼は淵上で、二回目の依頼は浦辺だったというわけか――そうか」
塚原はもう一度身を乗り出した。
「それで、富澤は三回目があるかもしれないと言ったのか。取締役は、もう一人残っている。運営担当の柾が。上場も提携もなくなった以上、春山は最後の選択肢を採らざるを得ない。現状維持のまま、自社技術を磨くという。しかしこれに柾は反対していた」
「運営担当の柾がね」僕は繰り返した。「大成功したぷらたんだけど、ひとつ心配の種があったのを憶えているか? 顧客満足度が下がっていることだ。なぜ下がるのか。ユーザーが望みどおりの情報を得られなくなったからだ。それはつまり、検索エンジンが以前ほど機能しなくなったことを意味している。なぜか」
もうわかったというふうに、塚原が頭を振った。
「何者かが、手を加えたのか。どんな店だって、自分の店を上位にしたい。運営担当に金を渡して、検索結果に手を加えてもらえれば、たとえユーザーの条件に入っていなくても、結果の上位に入ることができる」
「もし、そうなら」僕が後を引き取った。「柾にとっては、現状維持こそ最悪の選択になる。上場なら現業の拡大や新規事業に注目が集まる。提携ならシナジーの最大化だ。どちらも、新しいチャレンジばかりが騒がれるから、現状の穴を突き詰めて考える雰囲気にはならない。でも、現状維持なら、顧客満足度が下がったことに対する犯人捜しが始まる。具体的には、技術担当の浦辺と運営担当の柾のどちらに責任があるかという争いになる。後ろ暗いところがある柾には、勝ち目があるとは思えなかったはずだ。しかし春山は、その道を選んでしまった。柾は春山を殺害することで、身を護るしかなかった。東京にどの程度職業的殺し屋がいて、伊勢殿がどんな営業活動をしているか知らない。淵上も浦辺も、それこそ検索に引っかかった僕に依頼することになった。柾もまた、二人の取締役と同様に、僕に依頼をかけてくる可能性はあると思った」
「でも、柾は自ら手を汚すことを選んだ。それだけ焦っていたのかもしれないな」
僕は答えないことで友人の意見を肯定した。
「傑出したワンマン社長の下で、分不相応の地位を手に入れた小物が、それぞれの立場を利用して小金を稼いでいた。それが露見しそうになったから、慌てて社長殺害に動いた。僕が描いたのは、そんな絵だったんだ。どこまで合っているかわからないけれど、一応の説明はつく」
「そうだな。いや待て」
連絡係は、ぎょろりとした目で殺し屋を見た。
「じゃあ、どうしておまえは春山の監視を続けたんだ? 今までの話だったら、柾からの依頼を待っているだけでもよかったんじゃないのか?」
「ああ、それね」
口の中のビーフジャーキーを飲み込んでから、話を再開した。
「僕が心配したのは、元依頼人が捕まることだ。春山の決断によっては、淵上も浦辺も再び殺意を抱くことが十分考えられる。またこちらに依頼してもらえればいいんだけど、やっぱりお金がもったいないから自分でやろうと考えられては困る。しくじって逮捕されて、一度は殺し屋に依頼をかけたなんて自白されてはたまらないからね。だから、直接行動を起こそうとしたなら、止めなければならないと思った。春山の愛人は、同じ会社の女性だ。側近である取締役が事実関係を把握していても不思議はない。僕と同じで、春山を殺すチャンスは、愛人宅への往復時しかないと考えるのは自然だ。だから僕は監視を続けたんだ。止めるために、スーパーボールも用意していた。子供の玩具だから、指紋さえつけなければ児童公園に落ちていても不審に思われることはないから」
「でも、現れたのは依頼人でない柾だった」
塚原は、また僕を睨みつけた。
「依頼人じゃなかったから、当面の危機は回避された。それでも、柾が春山を刺す前に止めることは可能だっただろう。どうしておまえは、春山が刺されてから攻撃したんだ?」
「簡単なことだ」僕は即答した。「柾に逮捕されてほしかったからだよ」
塚原が怪訝な顔をした。「逮捕?」
「そうだよ」僕は当然という口調で答えた。
「柾が逮捕されたら、この事件は収束する。淵上も浦辺も疑われることはない。連中が殺し屋と関わりを持ったという事実は、隠蔽されるんだ。それこそが、僕の望みだ。今後のことはわからないけど、連中もそれどころじゃないんじゃないかな。頼りになる春山は長期入院だ。その間、能力のない二人で、なんとかして会社をもたせなければならない。一度はその社長を殺そうとしたのにね」
僕の話は終わった。僕も塚原も黙ってビーフジャーキーを囓り、ビールを飲んだ。二本目の缶ビールが空になってから、ようやく塚原は口を開いた。
「もし春山が復帰するまで、ぷらたんが今の業績を保つことができたら、どうする? スタート地点に逆戻りだ。また依頼があるかもしれない。そのときはどうする?」
「どうするも何も」
僕も缶ビールを飲み干した。
「確実に殺す。それだけのことさ」







