本書のテーマは「老い」であります。

 この原稿を書いている時点で私は七十二歳。いやはやたいした歳になったものだと思います。でも、そんなことを私より歳上の方々の前で吐露すると、

「なーに言ってんの。七十二なんてまだ若いわよ」

 とたしなめられてしまいます。

 実際、この超高齢化社会において、八十代や九十代でお元気な方はわんさかいらっしゃいます。そういう方々にとって、私はまだ若造もいいところ。「老い」について語る資格などないのかもしれません。

 とはいえ、私自身の心身を顧みれば、たとえばスマホに保存してある十年前の写真を見ると、

「ギョ。今と比べてなんとピチピチしていたことか」

 と驚きます。でも十年前には、それよりさらに十年前の写真を見て、

「おお、若かったなあ」

 と感慨に耽ったことを思い出す。だから、今から十年後、すなわち私が八十二歳になって七十二歳の自分の写真を見たら、まちがいなく、

「七十代はまだピチピチしていたなあ」

 と今の自分にがっかりすることでしょう。

 それでも、鏡の前に立てば、瞼は垂れ、唇まわりの縦ジワは増え、首のたるみはダチョウのごとし。しっかり口角を上げ続けなければ、見るも無惨なしょぼくれ顔になってしまうので、しかと心して人前に出なければならない始末です。

 まさに寝顔こそ、すべての取りつくろいを放棄した本来の自分の顔と言えるでしょう。

 自分の寝顔なんて普段見ることはないとお思いでしょうけれど、あるとき、私は見てしまったのです。うたた寝しているところを仕事仲間に盗み撮りされて、その写真を目の当たりにして愕然としました。これぞ私の七十年ものの素顔であることを思い知りました。

 寝顔が可愛いなんて、いったいいくつまで言われていたのでしょうかね。

 クリント・イーストウッドやロミー・シュナイダー(古いか)のような、シワシワでも魅力的な顔がある。

「あんな歳の重ね方をしたいものだ」

 と若い頃は憧れたものですが、もはやそんな気分にはなれません。人様のシワについては「人生の勲章よ」なんて言いながら、自分のシワは「使い古した雑巾」にしか見えない。

 顔だけではありません。いつの頃からかお酒を無謀に飲む気力体力は失せ、食の嗜好も食べられる量も少しずつ変化していることを感じます。

 徹夜で原稿を書いたりした日には、翌日のみならず一週間ぐらい具合が悪くなるので、いくら仕事が切羽詰まっても徹夜をしなくなりました。最近はもっぱら、眠くなったらさっさと寝て、むしろ早起きをしてなんとか締め切りに間に合わせるという方法を取っています。

 若い頃は夜中に電話が鳴ってしばらく話をしても、またすぐ眠りに戻ることができたのに、最近は夜中に一度、目覚めると(これが覚めるんですよね、お手洗いに行きたくて)、そのあとなかなか寝付けなくなりました。

 寝付きのいいことだけが私の取り柄だったのですがねえ。

 そんな肉体的老化を少しずつ実感しながら、ならば精神的にはどれほど年相応の落ち着きや貫禄が身についたのか──。

 まったくもって自信も自覚もありません。

 自ら「ない!」というだけでなく、私のことをよく知る周囲の人々も、「アガワには、ない!」「少しは落ち着け!」とはっきり言ってくださいます。

 こんなに長く生きているのに、どうして年齢なりの学習ができていないのか。年齢のことや人生について、あるいは死についてなど、ちゃんと考えずに生きてきたからでしょうか。

 仕事を始めたのが三十歳になる一カ月前という、社会に出るのが人より十年近く遅かったせいかもしれません。以来、

「スロースターターなので」

 を言い訳に、とりあえずその場その場をしのいでなんとか仕事を続けて今に至る。「ベテラン」という気持がいつまで経っても身につかないのです。

 でも、そのおかげかもしれません。精神がなかなか老成しない。むしろ、できればずっと小学生気分でいたい。

 ときどき人様に言われるのは、

「アガワさんは若いねえ」

 ではなく、

「アガワさんは子どもだねえ」

 です。これがいいことなのか悪いことなのかはわかりませんが、そんな子どもっぽい私がにわかに大人ぶったところで誰も認めてくれないでしょう。

 そんなわけなので、本書が読者の皆様の「良き年の取り方」の参考になるのかどうかは、はなはだ怪しいかぎりです。

 でも、

「こういう高齢者もいるのか」

 と呆れ、笑い、そして日常の小さな元気の源にしていただければ、それだけで本書をしたためた甲斐があるというもの。どうか過度に期待せず、さらりとご一読いただければ幸いに存じます。

  二〇二六年 年頭に

阿川佐和子


「まえがき」より