中編より続く
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『難波戦記』に遅れて、大雑把に言うと『難波戦記』に依拠しつつ、新たな内容を加えた作品群が出現する。徳川を贔屓して家康を礼賛し、豊臣(特に太閤秀吉)を批難するという『難波戦記』の大枠を残しつつ、幸村たち大坂方の活躍を膨らませている。それらは多く軍学者やその末流というべき講談師の著作であった。何例かを下に挙げる。
『難城事跡伝』。村越円柳という軍学者が、弟子の『難波戦記』他に対する疑義に答えたもの。短編である。所見一本には元文五年(一七四〇)の奥書がある。
諸士大きに乱れ、是非無く……平野(ひらの)を指し落ち給ふ。真田すかさず追ひかけしかば、大御所遥かにこれを御覧じ、「今は是まで」と御切腹の遊ばさる時に、大久保彦左衛門大眼をくわつと見ひらき、御馬の三途(さんず/尻骨の盛り上がったあたり)をはたとうち、「左様に臆し給ふて懸かる大義を調へべきや(こんな大事を成し遂げられようか)」とていよ〳〵御馬を進ませしに、……この隙に家康公危うき場を遁れ給ふ。
十八世紀前半に、家康が幸村に追い詰められて切腹しようとし、大久保彦左衛門に止められるという話が出来上がっていた。
『真田武功実録』。写本一冊でこれも短編。家蔵本以外には見たことがない。
志貴の戦いで、木村重成・後藤基次のために家康の陣は敗北する。大久保彦左衛門一人を供に家康は奈良へ逃げる。家康は奈良で桶屋と簾屋にかくまわれる。両店の下には水道が通っていて、そこに家康を隠し、追ってきた木村・後藤もこれには気付かず立ち去る。その後、桶屋と簾屋と共に逃げて行く家康を木村・後藤が再び見付けて襲おうとすると、桶屋と簾屋は命を的に二人と戦おうとする。木村・後藤は、職人迄が命を投げ出そうとする家康の大将ぶりを賞して引き揚げる。
家康の必死の逃亡と、それを助ける庶民の活躍が描かれている。引用は略したが、この後に家康には「諸天善神の御加護」がある、と説明される。
『浪速秘事記』。家蔵本には「和州 高市 久米山里風撰」と記されている。久米山里風は享保二十一年(一七三六)以前に、慶安事件を口演していた講談師である。幸村が今一歩というところまで家康を追い詰めながら仕留められない、という後年の作で何度となく繰り返されるパターンが出来上がっている。
冬の陣で、陣廻りから帰ってきた家康が真田丸の辺りを通ると、幸村が只一騎、大長刀を煌めかせて追い掛けてくる。追い詰められた家康は、大和川へ馬を乗り入れる。家康の馬は、伊達政宗が献上した奥州一の名馬なので浪を切って泳ぐが、幸村の馬は続けない。家康は高運の持ち主である。幸村は芦島に伏兵を置き、必ず家康が見分に来るので、その時推参しようと待ち受ける。ところが家康の陣廻りを、天海僧正が天文を勘えて止め、代って本多正純が芦島へ向かう。幸村はこのことを知り、「日本を手に入れなさる果報人と日影者の我々とは、提灯に釣鐘」と影を隠す。
夏の陣で住吉へ急ぐ大御所を、またも幸村は只一騎追い詰める。天海僧正が八百万神の咒文を唱え、とりわけ住吉明神に祈った所、住吉の社中で黒雲が道を遮る。幸村は茫然とし、「自分は誤った、天には敵しがたい」と力を落として引き返す。