御道具のリアルな存在感
――それぞれの話に出てくるエピソードをお伺いしたいのですが、「平蜘蛛(ひらぐも)の釜」という短篇の中では、主人公の真之介は、これはと思う茶釜を見つけて、茶道具専門のせり市に持っていきますが、値が上らずに、結局、ゆずの父親である茶道具屋が十両で買って、あとで家元の箱書きをつけて二百両で売ってしまうという話がでてきます。
山本 茶道具なんかは特に伝来の「由緒」が問題となります。極端な話、箱書きさえしっかりしていれば中はどうにでもなる(笑)。それに、道具というのは、持つ人によって値段が違ってくるんです。場末の道具屋と名のある茶道具屋では、同じものを売ったとしても、通用する値段がまるで違うんですね。せり市ではそんなこと関係ないのですが、あの場面は、ゆずの父親の主人公いじめとして書きました。
同じ「平蜘蛛の釜」に“道具が道具を呼ぶ”という話も書きました。真之介の店が、高杉晋作から平蜘蛛の釜を預かったら、ときを同じくして、松永弾正の掛け軸も入荷したという。実際、そんな驚くようなことがあるんです。友人の道具屋が、江戸時代の京焼きの皿を市に出したとき、べつの荷主から大正時代の骨董品売り立て目録が出ていて、まったく偶然、その皿の写真が載っていた。そうすると、これはいいもんやと、せりの声がぱんぱんはね上がる(笑)。面白いでしょう。
――「今宵の虎徹」では、前作の『いっしん虎徹』で描かれた虎徹の刀が、真偽鑑定というまた別の視点から描かれています。
山本 あそこにでてくる鏨違(たがねちが)いの虎徹は、本当にあるんです。研師(とぎし)の先生の説によると、これは銘を変えた直後だろうと。あそこで描いたように、どこかぎこちない虎徹なんですね。その先生から紹介していただいて『いっしん虎徹』を執筆中に、虎徹が二十七振りも揃っているのを見にいったんです。そのとき「ああ、虎徹でもこんなにいろいろあるんだ」と得心しました。この話は、そのあたりがヒントになっています。
――ほかの話にも実際の経験が生かされているのですか?
山本 この作品を書くために、私自身が古物商の鑑札をとって市場に出入りさせてもらっているんです。「猿ヶ辻の鬼」にでてくる手鑑(てかがみ)も、市場で見ました。市場の下見では、手にとって触ってかまわないので、荼毘紙(だびし)のあのざらざらした感触はこの手で確かめさせてもらいました。あの話では、真之介とゆずがそれぞれ龍馬と武市瑞山(たけちずいざん)にたのまれて、公家の姉小路さんへの贈り物を探すエピソードがありますが、あの中にでてきた稚貝の貝合わせも本当にあります。あれは、友達の道具屋の奥さんが持っているんです。道具は、現実にないとつまらないので、なるたけそういうものを小説の中に出していこうと思っています。
――それぞれの話にでてくる御道具の存在感や面白さは、やはり、リアリティのすごさなのですね。
山本 そういう意味では、『火天の城』や『いっしん虎徹』など今までの作品は取材して書き進めたものですが、これは、京都に関しても、道具に関しても、今まで自分の中に蓄積されたものが自然と形になったのかなと思います。それで、人も道具も、力が抜けて無理なく書けたのかもしれません。
――集めようと思って集めたものではなく、徐々に蓄積されたものが、滲み出して結晶化した作品というわけですね。
政治に左右されない庶民の強さ
――「御道具」「京都」「幕末」というキーワードのほかに、この作品の根底には、政治が掲げている旗の色は時代時代で変わっていくかもしれないが、そんなことに左右されない庶民の強さというものが描かれていると思うのですが。
山本 京都の人は、そういうところがあると思います。お上のやることは、あまり信用していない(笑)。だいたい、京都に住んでいると、東京の政治の話は、まったく別世界のことに感じられます。
――将来がどうなるかわからない世の中を、自分の目を信じて明るく渡っていく真之介とゆずの夫婦の姿は、現代にも通じるものを感じました。
山本 世の中がわるい、政治がわるいと言ったところで、ただのグチに過ぎません。結局は、自分の手でひとつずつまわりから変えていくしかないことを京都の人は知っている。
――これは、シリーズとしてこれからも長く読めると、読者としてはうれしい作品なのですが。
山本 できれば、戊辰(ぼしん)戦争まで書きたいですね。今度、「オール讀物」に、真之介とゆずのなれそめの話を書く予定です。シリーズものならではのサイドストーリーになると思います。
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