梟助は、越中・氷見の出。赤子のときに実の親を亡くした梟助は、鏡磨ぎ師の喜作夫婦に育てられた。昔の鏡は銅製で手入れをしないと映らなくなるため、定期的に鏡を磨ぐ職人がいたのである。明治になってなくなってしまった職業のひとつだ。
十六のとき、稼ぎ旅(職人が組を作って行う巡業)で江戸を訪れた梟助は、小間物屋・美弥古屋の一人娘に見初められ、翌年、婿入り。無筆の田舎者だった梟助は、寄席と書物からどんどん知識を吸収していった。美弥古屋を継いだあとも立派に大店の主人としての仕事をこなし、四十歳で息子に身代を譲って隠居。そして昔懐かしい鏡磨ぎを再開させたというわけだ。
それから三十年。古希を迎えた梟助は今日も襤褸を着て(裕福な商家のご隠居という正体は、客には内緒なのである)、道具一式を持って「カガミ・トギー」と声をあげながら町を歩く。鏡はどんな家にもあるので、長屋のおかみさんから商人の家、武家の奥方まで、梟助の客は幅広い。どんな客がどんな話題を振っても、梟助はこれまで培った博覧強記ぶりで会話をはずませる。それが楽しいと、梟助が回ってくるのを心待ちにしている客も多い。客のプライベートを知ることもあるが、決して他人には話さないから信用もされている。つまりは、物知りの名物爺さんなのだ。
梟助の過去については「庭蟹は、ちと」(『ご隠居さん』所収)で、また実の親については「百物語」(『犬の証言』所収)に詳しいので、未読の方は併せて読まれたい。
さて、ようやく本書収録作の話に入る。
「呼ぶ声」は、知り合いの借金を背負い、妻にも逃げられた男が、懸命に働いて安寧を得るまでの話だ。借金が返せなくてもうだめかと思う度に、若くして自死した友人が自分を呼ぶ声が聞こえた、という話に胸が詰まる。
この「呼ぶ声」が男の人生なら、二作目の「拈華微笑」は女の人生だ。若い頃、親に恋路を邪魔されて荒れてしまった娘が身を持ち崩し、転落ののちに、寺の住職に拾われる。梟助に話すことで人生を回顧した女はある行動に出る。
この二作に共通しているのは、梟助はただ話を聞くだけということ、そしてビフォア・アフターを梟助が見ているということだろう。特に梟助が何をしたわけでもないのだが、梟助に話すことで「呼ぶ声」の男は過去に区切りをつけ、「拈華微笑」の女は明日への一歩を踏み出す。梟助は触媒である、と書いた理由がこの二編でお分かりいただけると思う。また、鏡磨ぎという、半年かそれ以上のスパンでしか会わない立場だからこそ、時が経てば人は変われるのだということが読者にも伝わってくる。
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『赤毛のアン論』松本侑子・著
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