書評

バラエティ豊かな物語に大いなる人間讃歌
何冊読んでも飽きない「ご隠居さん」シリーズ

文: 大矢 博子 (書評家)

『還暦猫 ご隠居さん(五)』 (野口卓 著)

 さらにこの二作は、当事者が過去の話を語っているという点にも留意されたい。借金に苦しむ商人も、身を持ち崩した女も、その渦中にいるときに出会ったのだとしたら話はもっと辛いものになっていただろう。けれどどちらも「こんなことがあったんですよ」と、穏やかに話してくれる。そこでワンクッション入る。だから安心できる。たいへんだったけれど、それを話す彼らは、今は笑っているのだから。それが本書の読み心地の良さを作っている大きな要因だ。

 個人的に本書の白眉だと思っているのが「あたし、待つよ」である。女手ひとつで育てた娘が嫁ぎ、ようやく人心地つけたタネは、若い頃には足を運んだこともなかった寄席に行くようになる。そこで梟助に落語のことをあれこれ尋ねるというものだ。

 梟助の博覧強記ぶりが遺憾無く発揮される一作である。ここに出てくる落語や書物をあげると、落語「茄子の子(茄子娘)」、その元になった今昔物語集の「東方行者娶蕪生子語(あずまのかたにゆくものかぶらをとつぎてこをしょうずること)」、昔話の「鶴女房(鶴の恩返し)」から、鶴は何の象徴かという分析、「寿限無」とその地方バージョン、昔話の「餅食い地蔵」「十二支の順番」「亀に負けた兎」、昔話「関所越え」が落語になった「禁酒番屋」、本所の七不思議……もう出るわ出るわ。マジシャンが口から万国旗を出すかのごとく、するするとさまざまな話が次から次へと出てきて、読んでいて楽しいことこの上ない。

 だが本編の真骨頂はその後だ。タネは苦労のしどおしで、だれでも知っているような昔話すら知らない。それを知ることが嬉しいし、お話ってのはほんとうに楽しいものだと、少女のように語るのである。それを聞いた梟助は、あることに気づいて愕然とするのだ。

 お話を語ること、語り継ぐこと。その意味が、この作品には込められている。背筋が伸びる一編である。

 がらっと変わって「曰く付きの鏡」は怪異譚。『犬の証言』所収「百物語」に登場した、人の死が見える鏡が再び梟助の前に現れる。しかし「百物語」のような恐怖ものではない。そんな曰く付きの鏡を、道具屋がそしらぬふりで大奥の中臈に売ってしまい、どうしたものかなあという物語だ。

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還暦猫 ご隠居さん(五)
野口卓・著

定価:本体690円+税 発売日:2016年09月02日

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