知っている人は知っている話だが、梶井基次郎は宇野千代に恋していた。早世した梶井にとって、それは生涯一度の恋だった。しかし出会った頃の宇野千代はすでに人妻。夫は尾崎士郎である。
ある日、二人は千代をめぐって“決闘”した。尾崎が梶井の顔に火のついた煙草を投げつける。冷ややかな手つきでそれを拾い上げる梶井。彼はじっと考え込むように目をつむり、次の瞬間、猛然と立ち上がって「よし、やろう。さあ来い!」と言った。
千代が尾崎の手を押さえる。尾崎は彼女の肩を突き飛ばし、「貴様におれをとめる資格があるのか!」と叫んだ。
――というのが、後年の尾崎による回想である。
「檸檬」と「人生劇場」が決闘し、「おはん」(「生きて行く私」でもいいが)が止めに入る。いかにも豪華な布陣である。見ていた人の証言もあるから事実だろう。
このあと尾崎と千代は離婚し、梶井は結核のため31歳で死ぬ。千代は晩年、瀬戸内寂聴のインタビューに答えて男性遍歴を語ったとき、梶井とは肉体関係はなかったとして、その理由を「私は面食いだから」と言っている。
写真で見ると梶井は確かにいかつい容貌である。伊藤整は梶井と初めて会ったときの印象を〈色の真っ黒な(日光浴のせいらしい)、目が細く長い、顔が岩のように大きく荒々しい、ハトムネな位胸の張った二八九歳の男〉と書いている(ちなみに「日光浴のせい」とあるのは、結核だった梶井が、それが病気のためによいと信じていたからだ)。
千代は美男好きを公言していて、尾崎も、のちに結婚や同棲をする東郷青児や北原武夫も、美しい男である。だがそれにしても、女性に対して純情一途、千代のほかには浮いた話ひとつなく、最後は老母ひとりに看取られて死んだ梶井に、醜男だから寝なかったとはあんまりではないか……。
そう思ったのが、私が梶井と千代の恋愛について書くことになったきっかけである。根掘り葉掘り調べまわった結果は、本書に収録した「梶井基次郎 夭折作家の恋」でお読みいただきたい。
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