稗田阿礼が女性であるという説は古くから存在していたという。国学における宣長の後継者・平田篤胤(あつたね)、民俗学の巨人・柳田國男、『古事記注釈』の西郷信綱などによってである。長部がこの流れに与して、稗田阿礼女性説をとるのは、かの有名な天の岩屋戸の場面のアメノウズメのストリップティーズの描写を重んじるがゆえである。「日本書紀」にはない具体的描写が生彩に富んでいること、「胸乳(むなち)をかき出(い)で裳緒(もすそ)を陰(ほと)に押し垂れき」という細部を、映画評論家であり、映画監督でもあった長部が「当方の拡大解釈と想像を加えて視覚化」し、踊りの振り付けをも熟知していたであろうと結論する。
稗田阿礼が女性だったことで、天武天皇との共作となった「古事記」全体に、「女性しか持ち得ない視点」「女性原理」が浸透していった。「古事記」が完成するのは、天武天皇崩御から二十五年の後なのだが、その時代が持統天皇、元明天皇と、日本史上で例外的な女帝の時代だったことを長部は重く見ている。天武天皇は歴代天皇の中で、例外的に「軍事的な独裁者」としての顔も持っていた。「古事記」が稗田阿礼の中で熟成されていった女帝の時代は、天武時代の武張った色彩を薄め、天皇不親政の伝統を回復した時期でもあった。
長部によれば、天武天皇は「国民全般に通用する和語」としての日本語を誕生させた父である。そればかりでなく、天照大御神(あまてらすおおみかみ)を祀る伊勢神宮を国家的信仰の対象とし、二十年ごとの式年遷宮を行い、古代を今に伝えている。毎秋のイネの実りを感謝する新嘗祭(にいなめさい)、即位のたびの大嘗祭(だいじょうさい)も行い、「天皇」と称した。「日本」という国のかたちを作った天武天皇のもうひとつの作品が「古事記」だったのだ。
昭和九年生まれで、疑うことを知らない皇国少年だった長部日出雄は、戦後は教科書に墨を塗り、野球と映画と学校新聞を通してアメリカに触れた戦後民主主義の第一世代である。その長部が「皇国史観アレルギー」のため敬遠してきた伊勢神宮を訪れたのは、第十章でも書かれているように、還暦を過ぎてからだった。式年遷宮をすませた神域のたたずまいは、出雲大社の壮大で豪放な美と対をなしていた。縄文の美の出雲大社と、弥生の美の伊勢神宮。この「二つの中心を有する楕円形の文化を持った和の国、大和の国」への帰依が始まる。長部日出雄の本卦帰りである。本書は長部の本卦帰り、日本回帰の決算の書ともいえよう。
本卦帰りの兆候ならば、ずいぶん前からあった。ずっとさかのぼれば、昭和三十四年四月十日、御成婚の朝、池田山の正田邸前での経験を『「阿修羅像」の真実』(文春新書)では書いている。「週刊読売」の若手記者として、美智子さま出発を取材した時である。取材陣のすべてのカメラに対し、「どのレンズの視角にも正面に入るように、視線を微かにゆっくりと横に移されながら、軽く会釈」した時の、「輝くように気高く美しいお顔とお姿」を拝して、賛嘆の念が起きたのだ。その翌年には、川添登の『民と神の住まい』の挿絵に描かれた巨大な出雲大社の復元図に接し瞠目した。概して、イデオロギーではなく、美を通しての日本再発見は本書の中で書かれているとおりだ。
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