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「三国志」の美将たち――『正史三国志』から『三国志演義』へ

「三国志」の美将たち――『正史三国志』から『三国志演義』へ

文:井波 律子 (国際日本文化研究センター教授)

〈特集〉宮城谷「三国志」

出典 : #文春文庫
ジャンル : #歴史・時代小説

〈特集〉宮城谷「三国志」
後漢という時代 宮城谷昌光
・「三国志」の美将たち――『正史三国志』から『三国志演義』へ 井波律子
主要登場人物
後漢王朝皇帝全十四代在位一覧・後漢帝室系図

井波律子(いなみ・りつこ)
国際日本文化研究センター教授。1944年、富山県生まれ。京都大学大学院博士課程修了。中国文学専攻。『正史三国志』および『三国志演義』の訳者として知られる。
『中国の隠者』『「三国志」を読む』など著書多数

『三国志 第一巻』 (宮城谷昌光 著)

 白話長篇小説『三国志演義』には、あまたの英雄・豪傑が登場するが、すぐれた容貌と抜群の軍事能力を兼ね備えた美将(美貌の武将)といえば、まず呂布(りょふ)、馬超(ばちょう)、周瑜(しゅうゆ)の三人に指を屈するであろう。ちなみに、彼ら三人は京劇などの芝居の世界でもつねに二枚目として登場する。

 以下、この三人を中心に、陳寿(ちんじゅ)著『正史三国志』と羅貫中(らかんちゅう)著『三国志演義』の叙述を対照しながら、美将の描きかたの特徴を探ってみよう。

【呂布】

『正史三国志』「魏書(ぎしょ)」の「呂布伝」は冒頭で、呂布が董卓(とうたく)にそそのかされ、最初の主人である并(へい)州刺史(しし=長官)の丁原(ていげん)を殺害したあと、董卓に信任され父子の契りを結んだと紹介し、その剛勇については簡単にこう記している。

「呂布は弓術と馬術にすぐれ、抜群の腕力を有していたため、『飛将』と呼ばれた」。

 もともと「飛将」は弓術と馬術にすぐれた前漢の武帝の名将李広(りこう)に付された異名である。こうして李広になぞらえられたと記すことにより、著者の陳寿は簡潔な筆致で呂布のなみはずれた剛勇ぶりを明らかにしているが、その容貌に関する言及はいっさいない。

 これに対し、『三国志演義』(第五回)は、董卓の陣取る虎牢関(ころうかん)に攻めよせた諸侯連合軍の前に、姿を見せた呂布をこう描いている。

「三つに分けて束ねた髪に紫金のかぶとを載せ、四川(しせん)産の紅錦の百花袍(ほう)を着て、獣面呑頭の連環(れんかん)の鎧をつけ、鎧の上から玲瓏獅蛮(れいろうしばん=獅子の図案)の腰帯を締めている。弓矢を身につけ、手には画戟(がげき)を持ち、風にいななく赤兔馬(せきとば)に乗り、まさしく『人のなかに呂布あり、馬のなかに赤兔馬あり』といった風情である」。

 これまた直接、容貌への言及はないけれども、美々しいいでたちの念入りな描写と「人のなかに呂布あり」という賛嘆を通して、その並々ならぬ美将ぶりがおのずと浮き彫りにされている。

 正史には見えない呂布美将伝説のルーツはどこに求められるのだろうか。

 実は、正史の「呂布伝」に「呂布は董卓の侍女と密通し、そのことが露見するのを恐れて、内心おちつかなかった」という記述がある。

 この侍女のイメージこそ、『演義』世界において、董卓と呂布を操り、呂布に董卓を殺害させた美女貂蝉(ちょうせん)の原型にほかならない。

 こうしてすでに正史の記述において、女性との艶っぽい絡みが描かれていることが、呂布美将伝説の種になったことは推測にかたくない。

【馬超】

 涼州(りょうしゅう)の軍閥馬騰(ばとう)の息子馬超(ばちょう)も『演義』では、剛勇無双に加え、「錦の馬超」と呼ばれる美貌の持ち主だとされる。『演義』第十回の初登場の場面で、馬超はこう紹介されている。

「……冠の玉(ぎょく)のような顔(かんばせ)、流星のような眼、虎の体に猿の臂(うで)、彪(ひょう)の腹に狼の腰をした若い将軍が、手に長い鎗を持ち、駿馬(しゅんめ)にまたがって飛び出して来た。この武将こそ馬騰の息子の馬超、あざな孟起(もうき)であった。年は十七歳になったばかり、無敵の剛勇の持ち主である」。

 鋭く輝く目をした白面の美将の面影が彷彿とする描写である。この十八年後の建安十六年(二一一)、馬超は父馬騰を殺した曹操(そうそう)への報復を期して叛旗をひるがえす。

 このとき、馬超の猛攻をうけ追いつめられた曹操は、思わず「馬超の剛勇は呂布に劣るまい」(『演義』第五十九回)と感嘆したのだった。この言葉からも明らかなように、『演義』世界では、呂布と馬超は剛勇無双の美将という点で明らかに共通するキャラクターとして扱われている。

 この馬超も『正史三国志』「蜀書(しょくしょ)」の「馬超伝」では、その抜群の武勇についての記述は見えるが、「錦の馬超」をしのばせる容貌についての言及はない。ただ、裴松之(はいしょうし)の注に引く『典略(てんりゃく)』に、父馬騰の威風堂々たる風貌に関する記述があり、いつしかこれが息子の馬超に転化されたのかもしれない。

 考えてみれば、呂布は曹操の根拠地【なべぶた+兌】州(えんしゅう)に攻め込み、曹操を窮地に陥れたことがあり、馬超は上述のごとく、曹操をあわやというところまで追いつめた。『演義』の物語世界で、曹操は基本的に敵役(かたきやく)・憎まれ役であり、この曹操をきりきり舞いさせた呂布と馬超のイメージが美化され、剛勇無双の美将と化したのであろう。

 ちなみに、『演義』の曹操は、呂布や馬超のような美将とは雲泥の差、いかにも貧弱な小男として描かれている。

【周瑜】

 孫策(そんさく)・孫権(そんけん)の軍師にして呉の軍事責任者の周瑜が、ひときわめだつすぐれた容貌の持ち主だったことは、「周瑜は成人するとともに立派な風采をそなえた」と、『正史三国志』「呉書(ごしょ)」の「周瑜伝」にも明記されており、まぎれもなく「史実」である。

『演義』の周瑜は、ライバルの諸葛亮(しょかつりょう)にふりまわされ、ほとんど道化ともいうべき損な役回りだが、それでも、幼な馴染みの孫策が軍勢を率いて江東制覇に乗りだした矢先、周瑜とめぐりあった情景を『演義』第十五回はこう描いている。

「(孫策が)歴陽(れきよう)まで軍を進めたとき、一手の軍勢がやって来るのが見えた。先頭に立つのは、颯爽と垢抜けのした容姿で、眉目秀麗の人物。その人は孫策を見るなり、馬から下りて拝伏した。孫策が誰かと見れば、なんと廬江(ろこう)郡舒城(じょじょう)県出身の、姓は周、名は瑜、あざな公瑾(こうきん)であった」。

 周瑜は眉目秀麗のすぐれた軍事家であるのみならず、「曲に誤り有り、周郎(しゅうろう)顧みる」と称されるほど音楽的センスもあり、また彼の妻は美人姉妹「二喬(にきょう)」の妹であった(姉は孫策の妻)。諸葛亮との絡みではいつも周瑜に道化役をふりあてる『演義』も、呂布や馬超と異なり頭脳も明晰な、周瑜の颯爽たる美将ぶりをさりげなく描いているのは、これまた周瑜が「赤壁(せきへき)の戦い」で、敵役曹操の大軍を撃破した功績を無視できなかったためだろう。

 呂布・馬超・周瑜のほか、『演義』世界で端麗な容貌を称えられるのは、江東制覇を果たし、呉の人々に「孫郎(そんろう)」と呼ばれた孫策(周瑜は「周郎」)、初登場の場面(第三十八回)で、「身長八尺、顔は冠に付ける玉(ぎょく)のごとく、頭に綸巾(かんきん=隠者がかぶる青糸で作った頭巾)をのせ、身には鶴【敞/毛】(かくしょう=鶴の羽で作った上着)をつけ、飄々としてまるで仙人のようである」と紹介される、劉備の軍師諸葛亮だ。

 また、「天水(てんすい)の美将」と異名をとる姜維(きょうい)も、『演義』世界屈指の美将といえよう。姜維は魏の天水郡の部将だったが、諸葛亮の第一次北伐のさいに降伏して蜀軍の中核となり、諸葛亮の死後は蜀の軍事責任者となった人物である。

 こうしてみると、『演義』世界でめだって端麗な容貌を称えられる猛将や軍師のなかに、敵役である魏の曹操側の者は皆無であり、すべて曹操と対立した群雄および呉・蜀側の者だということになる。

 民間で伝承された三国志物語を集大成した『演義』は、『正史三国志』の叙述に操作を加え、曹操およびその子孫が立てた魏王朝と対立した人々に、はなばなしく美将のイメージを付与し、いやがうえにも興趣をもりあげるのである。

文春文庫
三国志 第一巻
宮城谷昌光

定価:737円(税込)発売日:2008年10月10日

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