「潜在ゴシック」の導入
『ゴシック美術形式論』を章構成と図版の両側面から概観するとき、現在の美術史的知見からみて直ちに違和を覚える点がある。それは、初期北方装飾にケルト美術が含まれているようにみえる事実である。例えば図8(本書二二七ページ)掲載の八世紀の古文書装飾は、スイスのザンクトガレン修道院が所蔵する「アイルランドの福音書 Codex Sangallensis 51」であり、「ロマネスク様式」に引き続く「ゴシック様式」からまず連想される教会建築とはかなりかけ離れた印象をもたらす。この点について、ヴォリンガー自ら第七章「初期北方的装飾における潜在ゴシック性」で次のように述べている。
「われわれの研究によって規定しようとしているゴシックの様式心理学的概念が、歴史上のゴシックと決して一致していないということは、まず始めに断っておかねばなるまい」「その発展の出発点はおそらくゲルマン人のスカンディナヴィアであろう」「いいかえれば円熟した歴史上のゴシックについて、ひとたび形式意志(Formwille)の根本的特徴を捉え得た様式心理学者は、今やこの形式意志がより強力な外的情況によって妨害され、自由な展開が阻まれて、似もつかないような変装をしている場合にも、この形式意志がいわば地下に躍っているものと見るのである」(本書五一~五二ページ)
すなわち、『ゴシック美術形式論』はこのように特徴付けられる「潜在ゴシック geheime Gotik」の形式意志を主題にした著作ということができる。例えば図4(本書二二五ページ)の動物文様は、スウェーデンのゴートランド(ゴットランド)地方の青銅金具であり、「ゲルマン人のスカンディナヴィア」に相当するのみならず、まさに「ゴシック」の原義「ゴート風の」にこそふさわしい「ゴート族」の装飾である。本書ではむしろゴシック建築の方が、それまで周辺現象とみなされた多彩な装飾様式から照射されているように思われる。ゆえに本書の魅力と「陥穽(かんせい)」はともに、主として潜在ゴシックという「変装」に由来するのだ。紙幅の都合もあり、詳細な分析は他日を期したいが、以下いくつか挙げるように、本書のなかで最も魅力的な節の多くが、いわゆる「ゴシック様式」ではなく、「潜在ゴシック」を論じた第七章に集中しているのは偶然ではないだろう。
「われわれは北方的装飾が抽象的な線としての特徴をもつにかかわらず、なお生命性の印象を起こすことを認める。しかも元来生命性の印象というものは、感情移入と結合されたわれわれの生命感情が、“直接には”ただ有機的な世界に対してだけ承認できるものなのである。だからこの装飾は原始的幾何学的な装飾の抽象的特色と、古典的有機的な色調を帯びた装飾の有生命的な特色とを、併有しているように思われるかもしれない。しかしそうではない」(本書五八ページ)
これまで見てきたヴォリンガーの関心をふまえると、ゴシックこそが抽象と感情移入の「調和的な総合統一」のように思われるが、そうではないというのである。「今の場合は相対立する二つの傾向の調和的な融合などとはかかわりがない。むしろこの二つの傾向の不純なしかも何となく気味の悪い混合が、すなわち有機的リズムと結合するわれわれの感情移入能力を、それとはかけはなれた抽象的な世界に対して強いて要求するということが、問題になる」(本書五八ページ)
こうして「抽象的形式への感情移入の可能性」の問いが、きわめて劇的な仕方で答えられることになる。「われわれの有機的に調和された生命感情は、このように意味をともなわない表現の重圧に出あうと、まったくでたらめなものに出あった時のように萎縮してしまう。しかしその生命感情がついに圧迫に屈して、みずからの力を、それ自身としては枯死している線のなかに流入させるようになると、この感情は何か異常な方法で感動させられているのをみずから感じ、また有機的運動のあらゆる可能性などはるか背後に引離してしまうほどの、運動の陶酔に引き入れられているのを感ずる」(本書五八~五九ページ)。ヴォリンガー自らが「中世の崇高な病的昂奮(ヒステリー)」(本書二〇一ページ)と呼ぶように、これは典型的な「崇高」についての描写であり、有機的なものへの感情移入衝動すなわち「美的享受」と対置されるに至るのだ。
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