夜中に「あじフライを食べたい、どうしよう」と思ったが、そんな時間に、あじフライを食べさせてくれる店はないし、冷蔵庫に鰺もないから作ることもできず、悶々としてしまったのは、本書のタイトルが頭に残っていたからだった。
わたしの寝床には、これまで出版された平松洋子さんの本のどれかが常に置いてある。寝るときに腹が減っているけれど、こんな時間に食べてはダメだと布団に入り、我慢しなくてはならないといったときに読むのだ。
最初は、読めば、なにかを食べた気になり、嘘でも腹を満たしてくれると思ったが失敗に終わった。余計お腹が空いてしまうのだった。
そこで考え方を変え、腹は減っているけれど、明日は何を食べようか、自分が食べたいものは何なのか? それを導いてもらうため、ページをめくるようにした。つまり明日の欲求を深くするために読むのだ。そして、いつの間にか眠りに落ち、朝起きてみると、すぐさま「今日はアレを食うんだ」と、その日の活力になっているあんばいだ。起きてすぐ、その日に食べたいものが決まっているのは爽快で、素晴らしい。一日の目的が確実にあるというのは、生きていることを実感できる。
このように、平松さんの本を読むと、お腹が空くだけではなく、食べること、生きることへの活力をいただける。しかし平松さんの本は決してグルメ本ではないし、そのようなガイド本でもない。そもそも平松さんに、グルメという言葉は似合わない。それよりも「喰らう人」(褒め言葉)といった感じだ。
昨今、ソーシャルネットワークなどで、「これ食べました」とか「この店オススメ」などという、グルメ者が出まわっているが、元来ひねくれ者のわたしは、「黙って食ってろ」「いちいち写真撮るな」と言いたくなる。しかし平松さんの本を読んでいても、そのようなことは思わない。というか、ソーシャルネットワーカーと比べるのも申し訳ないし、根本が違うのだが、平松さんの場合、なにを食べたのか? どの店に行ったんだ? と気になって仕方ない。本に出てくる食材を思い浮かべるとヨダレがたれ、出てきた店に行ってみたいと思い、行ったことのある店が出てくると嬉しくなる。
どうしてなのか考えてみると、平松さんの喰らうという行為や、出てくる食材には、物語が詰まっているからなのだ。極端にいえば美味い不味いの問題ではなくて、それぞれの食べ物には、味以外にも特別な何かがある。
わたしは平松さんと一緒に食事をしたことが何度かある(ちょっと自慢で、すみません)。吉祥寺で、肉を食い続けたり、深夜の鶯谷の居酒屋では、レモンサワーにハムカツ、黄色いたくあんを食べた。そんなときは、テーブルに並んだ食べ物が、ただの食材ではなく、なにか特別なものに思えて来る。なぜなら平松さんの本には、食べ物の物語があるからで、目の前に並んだ物を、どのように思っているのだろうと考えてしまう。もちろん平松さんは、そこで蘊蓄を語ったりなどの、野暮なことはしない。でも、なにかを思っているのだろうと推測してしまう。そして、わたしも、目の前の食べ物についていろいろと思ってみる。
ハムカツのハムは、どんな豚だったのか、パン粉にまぶされ、どのような気分で揚がっていったか。黄色のたくあんだって、七味をかけて、少しでも華やかにしてやりたくなる。平松さんの本を読んだり、一緒にいたりすると、食されるため、テーブルに並んでいる食べ物に、愛おしさすらおぼえる。
できあがった食べ物は、どんなものにでも、無条件に愛情がこもっている。わざとゴキブリを入れたり、ゴミをまぶしたり、変なものを入れたりといった悪意があるものは別だけれど、いくら料理人が嫌な奴で、「面倒くせえなぁ」と思って作っているものにも、 なにかしらの愛情がある。それは、人間が人間に食わせる行為の上にできあがったものだからだ。出てきたものが不味くても、料理自体に悪意はないし、食材に罪はない。もちろん愛情がこもっていて美味いに越したことはないが、そもそも美味い不味いなんて食べてしまえば、同じじゃないかと思えるときもある。なぜなら、そこには物語があるからだ。
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