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皿からはみ出した「かけがえのないもの」

皿からはみ出した「かけがえのないもの」

文:江 弘毅 (編集者・著述家)

『ステーキを下町で』 (平松洋子 著/谷口ジロー 画)

出典 : #文春文庫
ジャンル : #随筆・コミックエッセイ

 けれどもそれらグルメ情報は、どんなところに行っても必ず良い店に入って、これまた必ずおいしいものを食べているご機嫌な実生活者の前では無力だ。

 一品を頼むと、ごはんがついてくる。おじぃは「みそ汁」。わたしは「ヘチマみそ煮」か「すきやき」か悩みに悩んだすえ、えいや! と「すきやき」。沖縄ですきやきを食べたことがなかったから冒険にでてみた。K田青年は果敢に攻めこみ、中身が謎のまま「Aランチ」。

 最初におじぃの「みそ汁」がやってきた。うわあ。目を見開く。この量! 丼鉢になみなみ、豚肉、豆腐、青菜、レタス、卵。小鉢はクーブイリチー(昆布の炒めもの)。ごはんとたくあんが膳にのっている。自分が食べるわけでもないのに、滋養いっぱいの丼風景がうれしい。隣の席のおじさんふたりも、熱い「みそ汁」をやっつけている。

 わたしの「すきやき」が来た。うわあ。やっぱり驚きの声が出た。でかい平皿に牛肉、豆腐、青ねぎ、白菜、しらたき、生卵一個。ごはんをおかずに、わたしも元気にやっつけます。

 三番めにK田青年の「Aランチ」が運ばれてきたら、あまりの満艦飾っぷりに言葉がでなかった。垂見おじぃも苦笑い。特大プレートにもりもりの風景を見よ。牛肉と玉ねぎ炒め。豚肉のカツ。ささみフライ。さんまの筒切りの素揚げ。ポテトフライ。ポーク。オムレツ。ウインナー。レタス。ごはん。お椀に沖縄そば入りの汁――牛・豚・鶏すべて集合、夢もカロリーもおおきくふくらむAランチ豪華絢爛八百円! 青年三十歳は深呼吸をひとつ、微妙に緊張のおももちでフォークを握った。(106ページ)

 ここなどはものすごい。というかほとんど何も(内面を)書いていない。なのに一気にその地平が伝わってくるのは、平松さんの自己意識がその「場所」に溶け込んでいるからだ。達人の技芸である。

 沖縄に着くや「すずらん食堂」に行って、悩んだ末「すきやき」を注文して、皆が「うわあ」と歓声を上げるのだ。食通は自分および一緒に食べる人の味覚を変容させてしまう。つまり「おいしい口」にしてしまうのだ。

 確かにこのように書く平松さんの筆力は相当なもので、そこいらの書き手が及ばない腕前と芸でねじ伏せてしまう力があるが、その根底にあるのは「人が食べること」と「その街そのものとしての店」に対しての鋭い視点がある。その鋭さとはもちろんそれに対しての優しさである。評価とか査定とかの逆のベクトルだ。

 この『ステーキを下町で』は同シリーズ前作の『サンドウィッチは銀座で』に比べると、わたしが日常に飲み食いする大阪の店がなく(少し残念)、その代わりに京都のうどん屋さんがたくさん出てくる。確かに真冬のうどんは、大阪でなくて京都だ。その土地独特の「かけがえのなさ」の積分こそが「おいしさ」なのであるが、それらはものすごい変数群でむちゃくちゃに錯綜しているから容易にデータ情報化、記号化できない。

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文春文庫
ステーキを下町で
平松洋子 谷口ジロー

定価:704円(税込)発売日:2015年08月04日

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