三船敏郎は七十七年間の生涯で、百五十本もの映像作品を残した。終戦直後に映画界入りし、平成七年の『深い河』が遺作となるまで、国内外で数多くの賞を授かった。
彼はまた、俳優としてだけでなく、人間的にも、桁外れの魅力の持ち主だった。
今回の取材にあたっては、まず三船敏郎の人となりを知る人物をリストアップした。
黒澤明を筆頭に、山本嘉次郎、谷口千吉、稲垣浩、岡本喜八、小林正樹、熊井啓、深作欣二などの監督、俳優では志村喬、千秋実、加東大介など、個人的に付き合いがあったり、あるいは現場でぶつかり合った方たちだ。けれど、残念なことに、リストの大半がすでに逝去されており、お会いしたくとも、叶わなかった。
また、キャメラマンや結髪などを含めたスタッフの中には、生存されている方もおられたが、なにぶんにもご高齢で、ご家族から「記憶に問題があり、とても取材を受けられるような状態にはありません」というお断わりもあった。
三船が生存していれば、本著が刊行される平成二十六年で九十四歳になる。取材の対象は否応なしに、三船より年下で、記憶が比較的、確かな人物に絞られた。比較的という表現は失礼だが、証言の辻褄が合わなければ、こちらで裏を取ればいいという気持ちだった。
例外は、取材時に九十三歳だった橋本忍だけである。三船との付き合いが古く、親しい関係を保ってこられた方だけに、証言内容の細かさには驚いたものだ。
貴重な時間をさいて取材に応じてくださった方々には、感謝の気持ちで一杯である。
また、なにより驚いたのは、取材相手の中に、三船の悪口を話す人物が一人もいなかったことだ。長年、ノンフィクションの仕事をしてきたが、これは初めての経験だった。悪口どころか、彼らは現在でも、三船敏郎を敬愛しており、語る言葉は愛情に満ちていた。
むろん、立場によって百人百様の捉え方があり、証言も様々だったが、共通していたのは、三船敏郎への愛情、感謝の気持ちである。繊細で情に厚く、気遣いの人であった三船敏郎は、どれほど大きな評価を受けようと、相手によって態度を変えることはなかった。
多少ではあるが、芸能の世界の裏表を知っている私は、映画であろうと、テレビのシリーズ物であろうと、ヒット作が出て話題になると、謙虚さを失い、態度が変る俳優を何人も見てきた。
その意味でも、三船敏郎はデビューから晩年まで、姿勢が一貫していた稀有な俳優である。
本著は、月刊誌『文藝春秋』に掲載する記事から始まった。取材にあたって、同誌の島田編集長からは「美談にはしないでください。(三船敏郎を)好きになってしまうから」と注意を受けていた。客観的なポジションを保つことは、ノンフィクションライターの基本でもあるが、取材を重ねれば重ねるほど、三船敏郎という俳優を好きにならずにはいられなかった。彼が残した作品は手に入る限り観たが、その作品に、取材で得た証言を重ねると、さらに魅力的に感じられた。