『戦艦大和ノ最期』と小林秀雄
一九四五年四月、吉田は、副電測士の海軍少尉として戦艦大和に乗船していた。三千三百名を超える乗員がいたが、彼らは帰還することのない「特攻」を命じられていた。このときの戦艦の様相と乗員の心境を描いたのが『戦艦大和ノ最期』である。
この作品を吉田は文語体で書いた。この著作は彼の代表作であるだけでなく、戦争を描いた近代日本文学の作品においても特異の位置を占めている。今日、ここに描かれている事実をめぐってはさまざまな論議がある。だが、彼は彼における「真実」を書いた。この作品は単なる記録文学の範疇には収まらない。また、今日的な意味におけるどのジャンルにも当てはまらない。
初稿が書かれたのは一九四五年、終戦の年の秋である。「この作品の初稿は、終戦の直後、ほとんど一日を以て書かれた」と吉田は『戦艦大和ノ最期』(一九五二年版)のあとがきに書いている。江藤淳との対談「『大和』以後三十年」によると初稿の分量は、今日私たちが手にしている『戦艦大和ノ最期』の半分程度の量だった。文庫本でおよそ百八十頁になる作品の半分を吉田は一日で紡ぎ上げたのだった。
『戦艦大和ノ最期』を書く切っ掛けは、作家吉川英治との対話だった。先に見た江藤との対談で吉田は、自らの戦争体験を吉川の前で語る機会があり、一時間ほど一方的に語り終えると吉川は、今話したことを書かなくてはならない、「第一にそれは自分自身に対するつとめであり、もう一つは日本人の仲間に対するつとめである」と語ったという。
書き上げられるとこの作品は、文字通り作者の手を離れてゆく。今日のようにコピー機もない時代、草稿が人から人へと渡り、このことが吉田の生涯を大きく変えることになるのだった。
一九四六年の四月一日、吉田は勤務先の日本銀行で来客があることを告げられる。予告なしに現われた人物は「コバヤシ・ヒデオ」と名乗っていると対応した社員が伝える。批評家の小林秀雄はもちろん知っているが、彼が訪れてくるはずはない。心当たりはないが、ひと先ず会ってみることにした。面会する場所に行くと一人の男がいる。この人物を見たときの印象を吉田は次のように書いている。
「エイプリル・フールにしても、妙なカツギ方をするヤツがいるものだ。半信半疑で行ってみると、殺風景な受付の椅子の間に、小柄な人が立っている。銀白色の髪。静かな強い眼差し。それまで写真を見たこともなかったが、紛うことなき本物のすご味がそこにあった。〔中略〕
小林さんは、掌の中に、ボロボロになった大学ノートの切れ端を握っておられた。わたしの手書きの草稿が、友人の間を転々としているうちに、たまたま眼にとまったらしい」(「めぐりあい」本書二八六~二八七頁)
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