敗北からの再出発。「リンゴの唄」をくちずさみながら、人々は焦土を踏みしめ、力強く立ち上がりました。新憲法制定、東京裁判終了……と新しい国のかたちが定まっていく一方で、下山事件、血のメーデー、洞爺丸事故など、混沌とした社会状況をそのまま投影したようなできごとも続発。まさに混乱と希望が交錯した10年間といえるでしょう。
昭和20年代のできごと
1945(昭和20)年 太平洋戦争終結 『日本のいちばん長い日 決定版』(半藤一利) | 詳細 |
1946(昭和21)年 「リンゴの唄」ヒット 『血脈(上中下)』(佐藤愛子) | 詳細 |
1947(昭和22)年 日本国憲法施行 『日本国憲法の二〇〇日』(半藤一利) | 詳細 |
1948(昭和23)年 東京裁判終了 『東條英機と天皇の時代(上下)』(保阪正康) | 詳細 |
1949(昭和24)年 下山事件 『日本の黒い霧(上下)』(松本清張) | 詳細 |
1950(昭和25)年 「羅生門」公開 『複眼の映像――私と黒澤明』(橋本忍) | 詳細 |
1951(昭和26)年 マッカーサー元帥離日 『指揮官』(児島襄) | 詳細 |
1952(昭和27)年 血のメーデー事件 『完本 皇居前広場』(原武史) | 詳細 |
1953(昭和28)年 バカヤロー解散 『誰も「戦後」を覚えていない 昭和20年代後半篇』(鴨下信一) | 詳細 |
1954(昭和29)年 洞爺丸事故 『洞爺丸はなぜ沈んだか』(上前淳一郎) | 詳細 |
1945(昭和20)年 太平洋戦争終結
『日本のいちばん長い日 決定版』
(半藤一利/単行本刊行 1995年)
8月15日。NHKラジオが正午の時報を打った。和田信賢放送員の緊張した声。「ただいまより重大なる放送があります。全国の聴取者のみなさまご起立願います」。君が代に続いて流れてきたのは、一般国民が初めて耳にする、天皇の肉声だった。
「朕深ク世界ノ大勢ト帝國ノ現状トニ鑑ミ非常ノ措置ヲ以テ時局ヲ收拾セムト欲シ茲ニ忠良ナル爾臣民ニ告ク――」に始まる「終戦の詔書」朗読は、約5分間続いた。国民は日本のポツダム宣言受諾、すなわち敗戦を知った。
8月6日、広島に原爆投下。9日、ソ連が対日参戦。同日、長崎に原爆投下。もはや日本の命運は尽きていた。しかるに日本政府は徹底抗戦を叫ぶ陸軍に引きずられ、ポツダム宣言に対する態度を決められない。そして14日正午、宮城内地下防空壕にて開かれた御前会議。ここから玉音放送までの24時間が、日本のその後70年を決した。
本作は、この日本史上最も長い一日を、綿密な取材と証言をもとに再現したノンフィクションである。あの日、日本では何が起き、何が起きなかったのか――。
1946(昭和21)年 「リンゴの唄」ヒット
『血脈(上中下)』
(佐藤愛子/単行本刊行 2001年)
1月にリリースされた「リンゴの唄」。並木路子の明るい歌声は、ラジオを通して、敗戦に疲れ切った日本人の耳に染み入った。戦後最初のヒット曲とされるが、終戦を肌で知る世代は無論、団塊世代も団塊ジュニアも歌える希有な流行歌だ。
この歌を作詞したのがサトウハチロー。「ちいさい秋みつけた」「うれしいひなまつり」など誰もが知る童謡、「長崎の鐘」「悲しくてやりきれない」など数々の歌謡曲を残した。
ハチローの父は明治から昭和にかけ活躍した作家、佐藤紅緑。紅緑はある新進女優に入れ揚げ、長男のハチローらを捨て同棲する。その女優の産んだ子が後の作家、佐藤愛子さんである。
佐藤さんが、血の因縁ともいうべき情念にひきずられる自らの一族を描いたのが本作「血脈」。昭和9年、四男久が19歳で心中。末息子の死に悲嘆にくれる紅緑を冷やかに見つめるハチローの眼差し。やがて、戦争の気配と共に佐藤家にも世代交代の季節が訪れる。戦後、「リンゴの唄」を始めヒット曲を次々に飛ばすハチローと、老いてゆく紅緑。妻妾同居までする息子の放埒を耳にし、父はかつて恋に狂った自分の来し方を振り返らずにはいられない。
佐藤家の人々が織りなす凄絶な生のドラマはまた、大正、昭和、平成と日本人が辿ってきた道でもある。12年の歳月をかけた大河小説にして、著者のライフワーク。第48回菊池寛賞受賞。
1947(昭和22)年 日本国憲法施行
『日本国憲法の二〇〇日』
(半藤一利/単行本刊行 2003年)
1946年11月3日、日本国憲法公布。半年後の47年5月3日施行。
新憲法制定の山場は、敗戦から、政府が46年3月6日に「憲法改正草案要綱」を発表するまでのわずか半年余りにあった。各政党や民間有識者による改正草案の発表。そしてGHQによる原案提示。そこに帝国憲法改正小委員会委員長・芦田均のいわゆる“芦田修正”が入り、要綱が固まる。まさに戦後日本のかたちを決定づけた、激動の203日間だった。
45年3月10日の東京大空襲で九死に一生を得た半藤氏は、疎開先の茨城県下妻を経て、新潟県長岡で敗戦を迎える。いま「歴史探偵」として知られる氏は15歳の少年だった。あの、苛酷ではあるが希望に満ちた203日間を、歴史探偵の目に少年の目を織り交ぜつつ、哀切に描ききる。
「制定過程が拙速であり、与えられたものであることに相違はこれっぱかりもない。といって、『押しつけだから』論で内容まで全否定してしまうのは、(永井)荷風さんではないが、『笑う可し』というほかはない」(本書より)
1948(昭和23)年 東京裁判終了
『東條英機と天皇の時代(上下)』
(保阪正康 単行本刊行 1979-80年)
1946年5月3日、東京・市ヶ谷の旧陸軍士官学校講堂にて開廷した極東国際軍事裁判(東京裁判)。被告席に座ったのは東條英機、広田弘毅、板垣征四郎、武藤章ら28人。以降、48年11月12日までの2年半にわたり、「平和に対する罪」などをめぐるかつてない論戦が展開された。東條ら7人に死刑判決。12月23日執行。
開戦時の首相であり、戦犯の代表格として語られがちな東條英機。彼はいかなる人物だったのか? 長州閥に陸軍を追われた父の無念を胸に、軍内抗争をかいくぐり、陸軍大将、陸軍大臣、そして首相にまで上り詰めた男。しかし日米開戦を数日後に控えた某夜、彼は官邸別館でひとり号泣した。その涙は何であったのか?
東條への嫌悪感を心に抱きながらも、「自らの生理感覚を解明することが戦後民主主義の脆弱さの克服への道だ」という視点から、保阪氏が新資料と関係者への徹底取材をもとに、昭和史最大の「悪役」として葬り去られた男の64年の軌跡を克明に検証する。
1949(昭和24)年 下山事件
『日本の黒い霧(上下)』
(松本清張 単行本刊行 1960年)
戦後史屈指のミステリー、下山事件。6月1日、初代国鉄総裁に就任した下山定則は、早速GHQからの大量の人員整理要求という難題に直面した。日増しに苦悩の色を深める下山。そのさなかの7月5日朝、下山は失踪した。同日捜査が開始されたが、日付が変わって程なく、常磐線北千住―綾瀬間で轢死体で発見された。
事件の背景についてさまざまな憶測が飛ぶ。下山の死は自殺か他殺か。すなわち生体轢断か死後轢断か。司法解剖の結果をめぐって東大と慶大で見解が分かれた。しかし、最終的な結論を見出さないまま、捜査は打ち切られた。1964年公訴時効成立。
57年の「点と線」以来、「社会派推理小説」という新境地を切り開いていた松本清張は、60年、「文藝春秋」誌上で「日本の黒い霧」を連載。帝銀事件、松川事件、造船疑獄など戦後の大事件に推理作家ならではの視点で次々にメスを入れた。わけても「下山国鉄総裁謀殺論」(上巻収録)では、下山の死は占領軍の関与した“謀殺”であったとする大胆な推理を展開。センセーションを巻き起こした。
1950(昭和25)年 「羅生門」公開
『複眼の映像――私と黒澤明』
(橋本忍 単行本刊行 2006年)
黒澤明監督を一躍“世界のクロサワ”に押し上げた作品、それが「羅生門」だ。公開の翌1951年、ヴェネツィア国際映画祭に出品され、最高賞の金獅子賞を受賞。まだ敗戦の傷跡深かった日本はその快挙に沸き立った。
「羅生門」の脚本を黒澤監督と共同で担ったのが、これが脚本家デビュー作だった橋本忍氏である。その後「生きる」「七人の侍」「生きものの記録」「蜘蛛巣城」などを黒澤監督とともに生み出し、また「真昼の暗黒」(今井正監督)「ゼロの焦点」(野村芳太郎監督)「白い巨塔」(山本薩夫監督)「日本のいちばん長い日」(岡本喜八監督)「日本沈没」(森谷司郎監督)をはじめ数々の名作の脚本を手がけ、日本を代表する脚本家となった。2015年現在97歳。まさに戦後邦画史の生き証人といえよう。
黒澤監督の絶頂期をともにした氏が、その凄まじい、息の詰まるような創作体験のすべてを本書で赤裸々に明かしている。全映画ファン必読。
1951(昭和26)年 マッカーサー元帥離日
『指揮官』
(児島襄 単行本刊行 1971年)
1945年8月30日の来日以来、連合国軍最高司令官として日本占領を指揮したダグラス・マッカーサー米国陸軍元帥。
軍人として栄達を極め、大統領への野心を秘めつつ日本統治を進行していたマッカーサー。しかし50年に勃発した朝鮮戦争が彼の運命を変えた。当初こそ仁川上陸作戦の成功など華々しい戦果を挙げたものの、中国への進攻をめぐって本国のトルーマン大統領と対立。ついには更迭される。4月16日、日本を離れアメリカに帰還。連邦議会で退任演説をおこない、「老兵は死なず、ただ消え去るのみ」という言葉を残した。
児島襄は本書でマッカーサーをはじめ、山本五十六、山下奉文、栗林忠道、栗田健男、ハルゼー、ニミッツ、ロンメル、アイゼンハワーなど、第二次大戦を闘った東西の指揮官27人を取り上げ、彼らの重大局面における決断を鋭く論じている。
「(マッカーサーの)あまりにも多すぎる“栄光”と長すぎる頂上の地位とは、個人と機構との命運を混同視する過信を生む」(本書より)
1952(昭和27)年 血のメーデー事件
『完本 皇居前広場』
(原武史 文春学藝ライブラリー刊行 2014年)
日本が独立を回復してから初めてのメーデー。40万人が「再軍備反対」「単独講和反対」などのプラカードを掲げ、神宮外苑に集まった。そのうち6,000人ほどのデモ隊が皇居前広場に向かって行進。警官隊5,000人と衝突し、死者2人を出す惨事となった。
明治学院大学教授(日本政治思想史)の原氏は、皇居前広場を“定点観測”することで日本近現代の思想を探っている。46万5,000平方メートル。世界最大級の広場でありながら滅多に使われないこの場所は、しばしば歴史的事件の舞台となってきた。罹災民であふれ返った関東大震災。白馬に乗った天皇が二重橋に登場し、国民が嗚咽したシンガポール陥落。血のメーデー。平成に入ってはYOSHIKIが奉祝曲を奏で、EXILEが踊った――。
このドラマチックな歴史空間を、史料を駆使し徹底的に論ずる。
1953(昭和28)年 バカヤロー解散
『誰も「戦後」を覚えていない 昭和20年代後半篇』
(鴨下信一 文春新書刊行 2006年)
2月28日、衆議院予算委員会で吉田茂首相が西村栄一議員に対して発した「バカヤロー」という言葉。これが内閣不信任決議案の提出に繋がり、与党内の造反も手伝って可決。吉田首相は解散総選挙に打って出た。「バカヤロー解散」である。
鴨下氏は本書の冒頭で、戦後史において昭和25~29年の5年間はどうも影が薄い、とした上でこう記している。
「個々の現象をひろいあげてみると、こんな面白い時代はない。方向はでたらめで混乱し、人々は時にヒステリックなまでに熱狂し、時にうつ状態で虚脱しているけれども妙にエネルギッシュだ」
たしかに首相がバカヤローと毒づいたら解散なんて、こんな「でたらめで混乱」した話はない。あるいは朝鮮戦争、性の開放、歌舞伎・寄席・相撲の復活、ハードボイルド小説の上陸、凶悪犯罪……まさに昭和20年代後半は、面白くも不可解な激動期だった。
戦後の重要期でありながらなぜか軽視されてきたこの時代の底流を、硬軟とりまぜてユニークな視点から浮き彫りにする。
1954(昭和29)年 洞爺丸事故
『洞爺丸はなぜ沈んだか』
(上前淳一郎 単行本刊行 1980年)
9月26日、日本海側を北上してきた台風15号により、津軽海峡は荒れに荒れた。4時間足らずの間に青函連絡船5隻が相次いで転覆。とりわけ函館港を出港直後、制御不能に陥った洞爺丸は、浜への座礁をめざすも果たせず、大波に煽られ横転。乗員乗客合わせて1,155人の死者・行方不明者を出した。生存者はわずか116人。タイタニック号遭難にも迫る、日本史上最悪の海難事故となった。
台風接近の荒天下、船長はなぜ船を出したのか? 大宅賞作家・上前氏が25年以上にわたる取材をもとに、船長、乗組員、乗客たちが繰り広げたさまざまな人間ドラマを鮮烈に描きつつ、当時の状況を克明に再現して事故の真因に迫った傑作ノンフィクション。
「洞爺丸事件がきっかけで建設が促進された青函トンネルは、ちょうどこのあとがきを書いているさなかに先進導坑が貫通した。本坑の開通は昭和六十年の予定である」(「文庫版のためのあとがき」より)
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