安野 僕も教師だったので、実感を持ってそう思います。女性をとりまく社会の環境は、この百年で大きく変わりました。お母さまはその時代の第一線を生きていた。結婚して二男三女を育て上げ、そして百一歳の大往生だったそうですね。晩年はどのように過ごされていたんですか。
船曳 母は寅さんが大好きだったので、九十五歳のクリスマスに『男はつらいよ』の全四十八巻のホームビデオをプレゼントしました。母が寂しそうにしている夜は、「今日は寅さん劇場ですよ」というと、パッと嬉しそうな顔をする。インドの象(ガネーシャ)の貯金箱にめいめい入場料を二百円、チャリンと入れて。貯めておいて、次のクリスマスに開けて好きなものを買うんです。
母が『男はつらいよ』を好きだったのは、寅さんが旅するあちこちに日本の失われかけた原風景が残っていたからだと思います。津和野もでてきますよね。
安野 そう、吉永小百合がマドンナでね。あの図書館はなつかしい。
船曳 マドンナの歌子の父親が作家で……。
安野 宮口精二でした。夏物の着換えを風呂敷に包んでもって、とらやにくる所は泣きました。
船曳 寅さんの映画には“父親”とか“家族”への強烈な憧憬があるんです。
安野 テイを育てあげたヤスおばあさんも立派でしたね。
船曳 ヤスおばあさんもテイと同じく向学心が旺盛だったようです。第一回の国民学校を二年で了えた後、父親に頼みこんで寺子屋に行っていました。その寺子屋が、館林にある正田家、美智子さまの御本家だそうです。
安野 皇后さまは戦時中、一九四五年から約一年半の間、正田家の本家に身を寄せて館林の小学校に通っていらっしゃったことがあります。
船曳 安野さんの『皇后美智子さまのうた』という御本には、
「くろく熟(う)れし桑の実われの手に置きて疎開(そかい)の日日を君は語らす」
という皇后さまの御歌を紹介されています。皇后さまは疎開時代の思い出を、陛下と語り合われたのでしょう。今も館林に行くと、「美智子さまを見た」という人が多いんですが、どれも嘘ばかり。自分が見た記憶の中の綺麗な女の子は、みんな美智子さまになっちゃうんです(笑)。
「おばあさん」がいなくなった
安野 昔は、「おばあさん」が一家や村の要でした。「おばあさんに聞いてみなきゃわからない」という言い方があった。押し売りの撃退など、老人の声に耳を傾ける時代でした。
船曳 村の決まりや風習については、「おばあさん」は誰よりも知恵と経験を備えていますからね。
安野 本には、ヤスおばあさんの言葉がいくつも印象的に描かれていますが、船曳さんが一番好きなのはどういうものですか。
船曳 ヤスおばあさんの教えには、神さまを畏れる気持ちや、四季を愛でる心、村の生活の知恵など、学ぶべき言葉がつまっていました。
特に好きなのは「どんなに汚い装(なり)をしているものでもバカにしてはいけない。そういうヤツは人間のクズだ」でしょうか。村では、物乞いでも「お乞食さま」と「さま」を付けて呼んでいました。「お接待」などもその心の表われでしょう。
安野 昔はどんな町にも物乞いで暮らす人がいました。
船曳 あとは季節の節目の言葉。ヨシ場(茅場)にヨシキリが飛んで来て、ギョギョシ、ギョギョシと騒々しく鳴くんですが、梅雨が明けてぴたりと鳴き声が止まる。ヤスおばあさんは「ああ、ヨシキリの口に土用が入った」と。
安野 土用というのはウナギの日?
船曳 そうです。七月二十日くらいです。母もこうした知恵の詰まった言葉を大事にして、鮮明に覚えていたんですね。
でも、一つだけヤスおばあさんの教えに逆らった。吉野作造の紹介でYWCA(キリスト教女子青年会)に勤めていた時、交流のあったYMCA(キリスト教青年会)にいた一人の青年に出会った。その時、「東京では顔のいい男には気をつけろよ」、ようすのいい男は生活力がない、というヤスおばあさんの一番大事な言葉を忘れてしまったんです。
安野 確かにハンサムだよね……(結婚式の写真を見て)。
船曳 今度の文庫版にこの写真を入れたのは、何といいますか、私の父への唯一のオマージュです……。父は六十代で亡くなりましたが、母はこの本が完成した四か月後、静かに逝きました。
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