インタビューほか

「特攻」とは何だったのか
森史朗×保阪正康

「本の話」編集部

『特攻とは何か』 (森史朗 著)

ただ一人の反対者

 大西中将についていえば、敗戦直後の八月十六日午前二時四十五分、「特攻隊の英霊に曰(もう)す/善く戦ひたり深謝す」の有名な遺書を残して割腹自決した。先年、その遺書全文が石碑となり、五十五回忌のさいに菩提寺であるJR東海道線鶴見駅近くの鶴見総持寺に納められて、その除幕式に私も招かれて出席しました。

 いままでの定説でいえば、この大西長官が敗戦直前にフィリピンに派遣されてレイテ湾に米陸軍マッカーサー部隊二〇万の上陸をむかえ撃つ。そのために特攻隊を編成して、海軍兵学校出身の関行男大尉に指揮官として白羽の矢を立てる。隊長の関大尉はみずから志願して、「ぜひ、私にやらせて下さい」と申し出て、新婚まもない妻を遺して米空母に体当たりをし大戦果をあげる、というのが海軍関係者の証言だったんです。

 しかし、事実はそんな単純な話じゃない。まず、大西中将は突然の人事異動で内地からフィリピンに出されたもので、前任者は「ダバオ事件」といって、海岸の白波を米陸軍の上陸部隊と錯覚して司令部ごと山中に逃れるという大失態をやった。まるで『平家物語』の富士川の惨敗みたいなんですね(笑)。この混乱のさなかに在比航空兵力の大半を失った。そのため、前長官が赴任してわずか二カ月後に、あわただしく大西中将が現地入りする。

 そこで、手もとのわずかな航空兵力でひねり出した窮余の一策が体当たり攻撃なんです。事前に、内地から出発前に準備していた戦術じゃない。

保阪 その点についていえば、大西は「特攻に狎(な)れるな」という言い方をくり返ししますね。狎れるなという意味は、こういう非道な戦法を無限に日常化することの恐ろしさ、ある意味での人間の感性や理性を超えていくことに恐怖感をもっていたんだと思う。

 大西中将は特攻を、後に陸軍や戦艦大和をも沖縄に突っ込ませるような、全軍特攻を最初から企図していたわけじゃないんですね。あくまでもレイテ湾のマッカーサー部隊の上陸を阻止する。そのために、戦艦大和、武蔵を中心とした連合艦隊総力でレイテ湾の上陸船団に突入する。その一時期だけに、米海上航空兵力を飛び立たせないように航空母艦の飛行甲板を使用不能にするという、限定的な戦法だった。

 それが、最初の敷島隊の戦果が「米空母一隻撃沈、一隻中破」という過大なものであったために、部隊を拡大し、さらに全軍特攻へとエスカレートして行く。この特攻戦拡大が数多くの悲劇を生んで行くわけです。

保阪 僕は自分の本には書かなかったんだけれども、沖縄戦の最後の頃、失禁したり、腰が抜けて立てなくなったりする特攻隊員がいたりした。茫然自失しているのを抱え込んで乗せ、そして飛ばしていった、と学徒の整備兵が言うんですね。で、彼らはその乗せた罪というのをやっぱり今でも背負って生きている、と何人かから直接聞いている。

 森さんはこの本に書かれているように、遺族を訪ねる旅をしているんですが、実際に彼らと会ったときの感じというのはどうでしたか。

 遺族を訪ねる旅ですか。いやあ、あれはつらかったですねえ……(苦笑)。

 特攻隊員の遺族といえば当時の軍神ブームのなかですから、大騒ぎでしたね。家の前で拝んで行く人がいたり、神社まがいに鳥居を建ててくれたり、家族は狂熱のるつぼに放り込まれた。それが敗戦とともに一転して戦争犯罪人あつかいでしょう。両親とも、失意のうちに亡くなった人がほとんどでしたね。

 ある特攻隊員の妹さんに、「戦後は一家が不幸つづき。それも、兄が体当たりで大勢の人を殺したからでしょうか。もう、そっとしておいて下さい」と、頭を下げられたこともありました。一方、長男を特攻で亡くした母親は、「もう、だれも恨んどりゃあしません。責任者が責任をとってくれましたから……」と、大西長官が敗戦後自決してくれたことで気持が癒(い)やされる、という意味のことを言っていましたね。

保阪 それは、本心ですか。本当に癒やされたと思っているのかなあ。

 いやァ、それはどうかなあ……。時間の経過という問題がありますね。私が遺族を訪ねたのは戦後四半世紀もたってのことですからねえ。

保阪 森さんの本には、実際に隊員の人選に当たった飛行隊長のインタビューが載っていますね。命じた側の責任者は、特攻というものをどう考えていたのですか。

 最初の神風特別攻撃隊の隊長は健在でした。私のインタビューが戦後はじめてだ、と言っていました。とくに取材を避けている、というわけではなく、これも戦後三十年という時間の経過のおかげでしょう。

 その隊長氏は、「私は未熟だった。こんな危急の事態にどう対応して良いか、わからなかった」と言っています。飛行隊長といっても三十歳そこそこの若さですからねえ、正直な感想だと思います。ただ茫然と、最高指揮官の言いなりになっていた、というのが本当のところじゃないか。その分だけ、戦後は部下を死地に追いやった自分の責任について己を責めつづけていたようですよ。

保阪 大西の部下で、美濃部正少佐という人物が登場しますね。大西と二人、朝まで話しあって特攻隊を自分の部下から出さなかったという。

 美濃部正少佐はただ一人、現地部隊の指揮官として特攻に反対した人物ですね。レイテ湾の米上陸軍を阻止するのが日本海軍最後の作戦というなら、大西長官と兵学校同期生の福留繁二航艦長官も一緒になって、もちろん自分自身もふくめて指揮官先頭で米軍艦船に突っ込むべきだったと、戦後も主張している人です。

保阪 私も彼になんどか会いましたが、こういう軍人がいたということが、私たちにとって、特攻を考えるときの要点の一つではありますね。しかし、彼を「特攻に反対した」ということで捉えるだけではやっぱりいけないんだな。美濃部少佐もやっぱり海軍の軍人の一人で、あの時代に選択肢として、森さんの言葉を借りれば「必死隊はダメだ。決死隊でいい」という、その選択の違いがあっただけでしょう。だけど、それはほとんどもう同じ次元まで行っているんですよね。

 自分は一〇〇パーセント死ぬという命令は出せない。だけど九〇パーセントならやる。指揮官としてそこを守ったというだけで、特攻に対してちょっとだけ距離を置いた指揮官というふうに、僕は見ているんです。

【次ページ】大西長官の思想転換

特攻とは何か
森史朗・著

定価:本体890円+税 発売日:2006年07月20日

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