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「あくじゃれ」は捕物帳定型パターンを大きく脱皮し重厚な人間ドラマに

「あくじゃれ」は捕物帳定型パターンを大きく脱皮し重厚な人間ドラマに

文:大矢 博子 (書評家)

『破落戸 あくじゃれ瓢六捕物帖』 (諸田玲子 著)

出典 : #文春文庫
ジャンル : #歴史・時代小説

 と書くと、完全に歴史小説にシフトしたかのような印象を与えてしまうかもしれないが、実はそれも少々違う。

『再会』『破落戸』ともに、背景には天保の改革への反抗があるのだが、収録されている各短編で扱われる事件は、改革派によって弾圧された人を救うという、あくまで市井レベルの物語が中心なのだ。たとえば本書所収の「織姫」では、蘭方医のもとに鳥居耀蔵のスパイがいるかもしれないという情報を得て、その蘭方医を守るべく瓢六が潜り込む。「恋雪夜」では弾圧された芝居小屋で食中毒事件が起きる。

 圧政そのものより、それによって傷ついた市井の人々のドラマを、諸田玲子は描いている。水野忠邦と、それに対抗する大名家。南町奉行の鳥居耀蔵と、それに対抗する北町奉行所の面々。雲上の話になりそうなところに、瓢六という媒介を置くことで、著者は「政治」と「庶民の生活」をつなげてみせる。

 ここに書かれているのは、自分は前と何も変わっていないのに、政策が変わった途端犯罪者になったり、好きな人と結婚できなくなったり、好きな仕事が続けられなくなったりした人々の物語だ。あるいは、権力の側で力を持っていたものが、施政者の都合ひとつで突然切り捨てられる悲劇だ。庶民のあずかり知らぬところで政局が変わり、政策が変わる。振り回され、切り捨てられるのは、いつも末端だ。たとえ再び施政者が変わって方針がもとに戻ったとしても、そのときに受けた傷は癒えないし、失くしたものは戻らないという厳然たる事実。

 水野忠邦や鳥居耀蔵は失脚する。だが、これは決して瓢六たちの手柄ではないことに留意されたい。一介の町人に、老中や奉行を直接どうこうできるはずはない。瓢六たちのやったことは、つまるところ、犠牲者の死に水をとってやったに過ぎないとも言える。

 では、本書のテーマはどこにあるのか。

 政治に振り回され、ときにいわれのない傷を受ける、そんな社会であっても――生きているものは、生きていかねばならない、という当たり前の事実こそがテーマなのではないかと私は読んだ。

 それがわかるのが、大きくその顔を変えてきたように見えるシリーズにあって「変わっていないこと」の存在だ。

 顔ぶれは違えど、チームで事にあたるという構図が同じであることに、まず気づかれたい。さらに、お袖の悋気台風の代わりに、旗本の奥様の無理難題が毎回瓢六を困らせるというパターンが生まれている。高飛車で若い男好きな奥様や、我儘放題の子供達に振り回される瓢六には、つい頬が緩んでしまう読者も多いだろう。そして、お袖は失ったものの、奈緒さまとのロマンスが生まれた。

 大事な人を亡くしても、病気になっても、夢を失っても、裏切られても。もう立ち直れないという思いを経験しても、それでも人は、立ち直ることができる。また笑うことができるようになる。新たな仲間や恋に出会ったり、子や孫に思いを託したり。右手が使えなければ左手で、ひとつの夢が潰えたら別の夢を見て、そうやって私たちは進んでいける。辛いことはたくさんあるけれど、ささやかな楽しみもたくさんある。それが生きて行くということであり、人にはそのたくましさがあるのだ。

 第三作『べっぴん』以降の本シリーズは、つまるところ、「生きていく」というテーマに収斂するように思えてならないのである。

 

 本書で物語は一件落着したようにも見えるが、まだシリーズは続く。初めて登場したときは二十六歳だった瓢六も、四十路になった。『再会』から登場した奈緒さまや勝麟太郎、そして弥左衛門・八重夫妻の息子の弥太郎といった新レギュラーたちと一緒に、これから幕末へと向かう江戸で、瓢六がどんな活躍を見せてくれるか、楽しみでならない。

 蘭学に造詣の深い瓢六の活躍の場は、これからさらに増すはずだ。だからこそ、勝麟太郎と瓢六を知り合わせたのだろうと推測しているのだが……さて、この想像やいかに?

文春文庫
破落戸
あくじゃれ瓢六捕物帖
諸田玲子

定価:759円(税込)発売日:2016年08月04日

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