私たちは生き物である。生き物は植物と動物とに分類されるが、私たちはそのうちの動物の範疇(はんちゅう)に含まれている。植物と動物を区別するものは、その栄養の摂り方にあって、植物は無機物と太陽があればよく、たいへん自立的、平和的であるのだが、動物は酸素などだけではなく、他の植物や動物を捕食しなければ生きていけない。
動物であれば、どんな原始的なものであれ、他の生き物を食べて生きている。私たちも、その遠い出発点からこのかた、殺生することを運命づけられてこの世にある。
食欲と並んで、睡眠欲とか性欲とかを生物的にもっているというが、睡眠や性をずっともっていたのかは怪しい。原生動物は眠ることがあると思えない。半分眠り、半分覚醒しながら、彼らの一日の生活はあるのではなかろうか。いつ眠って、いつ起きたのか、彼ら自身にもわからないに違いない。性欲に関しては、明らかに、雌雄両性ができてからの話であって、単性生殖の動物に性欲はあり得ない。人間にとって、最も重要な生理的な欲望は、食べることである。
私たちのもっている言葉は、私たちに非常に必要で、表現したい場面、とても興味のある事柄について、それ相応の整備がされているはずだ。言葉の網は、当然、人間にとって最も重要なその行為について、最も密であるだろう。
手近な辞書で「食べる」の類語を引く。
食う・食する・喫する・したためる・食らう・平らげる・ぱくつく・頬張る・掻(か)き込む・つつく・賞味する・味わう・口にする・箸を付ける・(弁当を)使う・(尊敬)召し上がる・上がる・召す・聞こし召す・(謙譲)頂く・頂戴する・(動物が)食(は)む・ついばむ。
ここでは食べ方、すなわち、平らげる・ぱくつくなどの違いによって、使い分けているのは当然として、対人関係に基づく表現の違いに気づかされる。食べることは、誰かと食べる、あるいは、食べたことについて誰かに伝える、その違いが意識されている。日本語では、食べることが、単に口を通して食物を体内に摂取することとして終わらず、自分の行為なのに、あるいは、他者の行為なのに、それがどのような人間関係で行なわれているのかを、常に考慮しながら言葉にしていると思える。
個人的な行為が、個人の中で中立的に収まりきれず、伝える時には、社会の中でのその行為の意味づけを考えることで、より適切な表現になるらしい。少なくとも、そうすることで気持ちが落ち着くようなのだ。
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