住職の跡取り息子が茶髪で、どう諫めるべきか? という質問。檀家の目もあり、寺の世間体、息子の将来の信用も考えてハラハラ、「そう考えて、父親の住職として、息子の茶髪を諫めるのは、いけないことでしょうか」という質問への回答。「いけないことでしょうか、と訊かれても、困りますねぇ。少なくとも、そんなふうに自信のない方には、誰だって諫められたくはないでしょう」という言葉から、言葉というのはたんに記号ではなく、迫力なんだと納得をする。とくに諫めるというようなことの場合、体ごと発したものでないと、意味だけいくら正しくても本人には届かない。
サッカーWカップの、日本チームのシュートを思い出した。ボールの動きがどことなく、意味は正しくても自信に欠けるというか、迫力が細いというか。
もう一つ、お布施というのは金銭でもあるために、俗世間の論理の逆流もあって、やはりお坊さんにも解釈上の悩みがあるらしい。そのお布施についての著者の解釈。お布施は「要は風のように入って出ていくだけで、我々はその向きを少しだけ変えられるということです。それは我々が社会に対してできる、最も大きな仕事ではないでしょうか」というのがさらに進んで「じつは布施という純粋な贈与がなければ、自然も体も成り立ちません。天は大地に雨を布施し、大地は作物に栄養を布施し、農作物は人間に我が身を布施している。また体のなかでも、骨髄で作られた血液は心臓をとおって全身に布施され、肝臓は胆汁を布施し、肺もきれいな酸素を布施しています。全身これ布施する集合体なのです」という布施宇宙論はすごい。
この本の読みやすさは、テーマが卑近で、しかもその解釈が仏教用語を使わずに科学的で、一つの論理へのこだわりの見えないところ。たてまえの上で宗教家がよけて通るようなものにも、あっさり近づいて触わってみるし、じっさいに著者自身若いころは生家の僧職に反抗し、家を出てあれこれの軟派硬派の職業を渡り歩き、新興宗教にもあちこち入門を繰り返してきたようで、それらを全部飲み込んだ上でいまの僧職の位置にいる。この人生相談の喉ごしのよさも、それらを消化する内臓の強さから出たものだろう。
オリンピックの五種競技、あるいはトライアスロンを思い出した。一つの競技だけでなく、多種の競技の連続で競う。昔は鉄人レースとも呼ばれていた。その展開をあれこれと見ているようで、また次の相談も読みたくなった。
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『赤毛のアン論』松本侑子・著
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