山本七平の著書に『ある異常体験者の偏見』(文藝春秋)というのがある。異常の上に偏見なんだから、本当ならそんなものをまともに読む人はいないはずである。世間で異常な犯罪が起こると、新聞は「警察は動機を追及中」と書く。でも起こった出来事自体が異常なんだから、動機がわかるとは私には思えない。その動機が理解できるなら、理解できるあんたも異常なんじゃないか。そういうことになってしまう。だからもちろん山本七平のいう意味での異常も偏見も、それを論じる立場そのものは、じつは「常識」であるはずなのである。
それなら山本七平は常識家か。常識が意識できるということは、山本七平が日常的にやや常識から外れた立場にいたことを意味する。まさに岡目八目で、そういう人こそ常識がよく見えるはずなのである。ただし常識はずれでも、日常的に大きな問題は起こらない。なぜなら山本七平は常識家だったからである。これを矛盾だと思う人のためには、まだ説明が必要であろう。つまり山本七平は普段から常識の前提を考えていたのである。前提を考えておく重要性は、ものを考える人なら直ちに理解するであろう。でも大学教育を典型として、日本の教育ではそれをまずやらない。山本七平がそれをやっていたのは、思想としてのキリスト教があったからであろう。
くだいていえば、常識の前提とは、ある常識について「だからこうなんだな」と思うことである。その逆が「どうしてそうなんだ」なのだと思えば、おわかりいただけるであろう。常識にはそれなりの根拠がある、あるいはあるはずであって、それを吟味し承認するのがいわば常識の前提を問うことである。無前提に常識を受け入れていれば、「そういうものだと思ってました」ということになる。
前提から導き出される結論は、かならずしも一つではない。論理的には肯定と否定の二つはかならずある。コンピュータの場合にはそれしかない、つまりゼロと一しかないから、コンピュータ内部では話は簡単である。でも人の思考はそう簡単ではない。言語を使うのだから、なおさらであろう。その種の前提の吟味に慣れていると、世間の常識をただ信じるということでもなく、ただ反対するでもない立場が発見できる。それが山本七平なのである。
お読みいただければわかるが、この著作はかならずしも上のような常識自体の吟味をしている作品ではない。山本七平流の「常識」から、当時の世界や日本の世間を見た折々の感想を記す。われわれはそこから常識に関するいくつもの「教訓」を発見することができる。
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