「山本家の始まり」それは、一九八七年。わたしたちは、仕事を通じて知り合った。
性格、年齢、育った環境、いろいろ違う二人だったが、『おいしい』と『おもしろい』と思うポイントが、とても似ていた。
「一緒にいたら、楽しそう」そんな思いで、結婚した。わたしが二十四歳、彼が三十歳の時だった。
妊娠を機に、東京S区から彼の実家のある京都市に移った。
彼の母が亡くなり、父が一人になったこと。子育ての環境がいいこと。それから「京都暮らしをしてみたい」と、思った千葉県生まれのわたしの好奇心。三つの要素が重なって帰郷することになった。
二年後に息子も生まれた。娘が小学校へ上がるころ、フリーライターであった彼は、作家になっていた。
――帰郷は、作家として生きていく決意。
わたしがその思いを知ったのは、『火天の城』で、松本清張賞を受賞した後だった。のん気なわたしは、少しも気づいていなかった。
作家として充実し、締め切りに追われるようになると、自宅にいる時間が少なくなる。多くの取材をしつつ、原稿執筆する日々。夫婦の会話が少なくなって、思い違いや思い込みで、ぶつかることもあった。
直感で動くわたしと、熟慮実行の彼。もともと「違い」の多い二人、バランスが取れているときは良いが、崩れるとややこしくなる。
些細なことでケンカをしたある日、兼一さんが、ニコニコ顔で仕事場から帰ってきた。
ケンカしたのに、おかしいな? と、思っていたら……。
「あなたに贈り物をします。手をだして。」
と、言った。仲直りのプレゼントかな? こんなことは、初めてだ。ウキウキしていたら、一枚の紙を出した。
和紙に巾着袋の絵が描いてある。その中に筆でしたためた『堪忍』の二文字。
「キミは堪忍が足りないから、これをあげます。はい、堪忍袋。」
堪忍とは、“怒りを抑えて、人の過ちを許すこと”。
わたしが、怒りっぽいと言いたいの? それとも、悪かったと、謝っているの?
どちらにしても、がっかりだ。「がっかり」が大きすぎて、何も言えなかった。
そんなわたしを、兼一さんは満足そうに見つめていた。
彼の病が発覚したのは、このプレゼントを受け取った七か月後だった。これは、偶然?
堪忍のもう一つの意味は、“肉体的な痛みや苦しい境遇を、じっと耐えること”。
わたしは、この『堪忍袋』に励まされ、毎日病室に通った。
退院することができて「山本家の始まり」にもどれたのも、この言葉のおかげなのかもしれない。
そして松の内があけるころには、彼は入院前とかわらないペースで仕事をしていた。何ごともなかったように、活動的に過ごすので、わたしは心配でたまらなかった。
いろいろと世話を焼いていたら、ついに彼を怒らせてしまった。
「ぼくは治ったの。世話焼きはいいから、キミも仕事をしなさい。」
実はわたしは『つくもようこ』のペンネームで、児童小説を書いている。彼の入院で、仕事をお休みしていたのだ。
思い切って仕事を再開してみたら、穏やかな日々が戻ってきた。夕食後は二人で、小説や映画の話をたくさんした。
時にはプロットの相談をしたり、エピソードについてアイディアを出し合ったり……。
小説があって、本当によかった。
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