「麹町の、先生?」
「全集の前の持ち主」
「麹町の、先生?」
「初版で買って、きれいに読んでたみたいね。あの家からはけっこう、いい本出たな。急に亡くなられたんでしたかねえ」
わたしは、狭い机の上の古めかしいレジスターの脇に置かれ、きっちりと送付状を貼り付けられた荷物を、深い落胆とともに見つめることになった。
まあ、家に一揃いの一葉全集があること自体は、物書きを生業としている人間として、ありうべきことのようにも思えたし、店主が言うように、このきれいに読まれてきた六冊が二万五千円で手に入るのもありがたいことである。だから、悪くない買い物だと思うことにしても、全集が喜和子さんのものであるという思い込みは、このようにして、早くも大外れと露見したのだった。
「どうかした?」
店主は恵比須顔を崩さずに上機嫌で言う。
仕方がないので、わたしは麹町の先生なる人物をまったく知らないこと、谷中に住んでいた友だちが亡くなったこと、彼女が最後までだいじにしていた一葉全集が同じものであったことなどを話す羽目になった。
途中、店主は飴玉を取り出して舐めはじめ、わたしにも勧めてくれた。それはなんとなくわたしの心を和ませ、いきなり金太郎飴をくれた、喜和子さんとの出会いのシーンを連想してみたりした。店主がくれたのは金太郎飴ではなく、ミント味ののど飴かなにかだったけれども。店主は、煙草は好きなんだがだいじな商品を焼いちゃまずいので店内は禁煙でとかなんとかいう話をし、それでそのばあさんがどうしたんだって? と、意外に熱心に話を聞き、相槌を打ってくれた。そして、わたしがあらかた話し終えると、レジスターの載る机の後ろの壁に打った釘にひっかけてある孫の手をひょいとつかむと、孫の手はこのようにして使うという見本のように首からシャツの中に差し入れて、ぱりぱりと背中を掻いた。
「じゃあ、あれかねえ、あの人、結局、探し物を見つけないうちに、死んじゃったねえ」
孫の手を背中から引き抜いて、また釘にかけると、店主は感慨深げにそう言った。
わたしはまた混乱して、店主の顔を見上げた。
「探し物?」
「うん。あの人、ここに来たとき、ある絵本を探してるって言っててねえ。こっちもプロだから、探せるもんなら探してやりたかったが、なんともざっくりした、いい加減な話なんで、あんまり本気出さずにほっといたんだよ」
「あの人?」
「喜和ちゃんだろ」
「喜和子さん?」
「その話をあんた、してるんじゃないの?」
「喜和子さんのこと、知ってるんですか?」
「知ってるよ」
「じゃあ、ここ、やっぱり、喜和子さんの古本屋じゃないですか!」
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