それぞれ、日常の暮しをなんとかこなしながら時間を見つけては実家に行こうとする。この日常と非日常の緊張は、それなりの年齢になった人間なら誰もが経験していることだろう。
父の症状が進むにつれて具体的な問題が次々に起ってくる。父親をどこの施設に入れればいいのか。そもそも千人待ちが当り前という特別養護老人ホームのどこに入れるのか。費用はどうするのか。
切実な現実の問題が次々に三姉妹を襲ってくる。三姉妹は、それをケアマネージャーと相談しながら解決しなければならない。不謹慎な言い方になるが、人間一人が死んでゆくのを支えるのは大変な「仕事」になる。
しかも、認知症の場合(癌もそうだが)、家族がいくら力を尽して介護しても、進行をとめることが出来ない。介護する者にとって、これほどつらいことはない。
父親に加え、母親が目の病いで倒れる。放っておけば失明するところだった。介護に追われ、医者にきちんと診てもらわなかった結果である。よく言われる、老老介護による共倒れである。娘たちは精神的に追いつめられてしまう。母の病気に気がつかなかったとは。
親の病気に、娘たちは罪悪感にとらわれる。介護にはつねにこの、申訳ないという気持が付随する。親をきちんと見ていなかったこと、いまの自分の生活ばかりを優先して、老いた両親のことを大事にしていなかったこと。中島京子は、娘たちの悔恨を書き込むことを忘れていない。
父親はベッドから落ちたらしく脚を骨折する。認知症に加え、歩行困難になる。そんな状態の父親を自宅介護出来るのか。
思いあまって、三女の芙美は医者に、自宅での生活はどういうものになるのかと聞く。医者の答えは、あっさりしている。
「お嬢さんが、がんばるしかありません」
これほど厳しい言葉はないが、いま、日本の各所で、認知症の親を介護する家族に、医者はこう答えているのだろう。医者も、こうとしか言いようがない。家族はこの試練をなんとか乗り越えてゆかなければならない。
ただ、中島京子は最後、父親の死をリアルには描かない。映画のカメラで言えば、一気にロングにする。遠景に父の死を置く。そして近景はカリフォルニアに住む中学生の孫が校長と面談する姿をとらえる。
孫は校長に祖父の死を告げる。
自分の祖母も最後、認知症になったという校長は、認知症のことをアメリカでは「長いお別れ(ロンググッドバイ)」というと語る。「少しずつ記憶を失くして、ゆっくりゆっくり遠ざかって行くから」。「長いお別れ」という言葉で語られることで、認知症は「病気」や「試練」から「詩」になる。人間の領域から神の世界へと移る。
認知症が始まってから、父親はよく「帰りたい」と言った。カリフォルニアの長女の家に行った時。施設に入った時。いや、自分の家にいる時でさえ。父親は、どこに帰りたかったのだろう。神がいる世界にか。
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