むべなうどころか、否定する気にすらなれぬ。鉄砲洲で舞ってからずっと、剛は思いつづけている。どれほどかはともあれ、あの養老は買いかぶられている。すくなくとも、こぞって持ち上げられるほどの舞台ではない。
「かつて耳にしたことのない速さの囃子と地謡であったにもかかわらず、よくもあのように颯爽と舞えるものだと」
そこ、なのだ。まさに、そこがちがう。舞い納めたあとの合評でも例のない速さを糾す声一色になったが、あの速さはけっして舞台を妨げなかった。むしろ、自分はあの速さに助けられたのだ。躰の利く己れにとって囃子と地謡の速さはさしたる障りにならない。逆に序之舞のようなゆったりとした舞のほうが勤めがたい。往々にして序之舞は舞い始めに序なる足遣を見せるのでその名があるように語られるが、そういう説き方ではこの能にしかない舞踊を見誤らせる。序之舞はあらかたを序破急の序だけで舞うから序之舞なのである。終始、変わらぬゆるやかさで舞い、静止することがない。躰のどこかが常に動いている。能の舞でも基となる中之舞などは穏やかとはいえ序破急で舞う。つまりは緩急があるが、序だけの序之舞は緩急に逃げ込むことも、緩急で挽回することもできぬ。粗は粗としてそのまま露わになるということだ。そんな舞踊は能の外を見渡しても序之舞くらいしかない。それに比べれば、速さは優しい。険しそうに見えて優しい。もろもろを速さの中に包み込む。おまけに、見処の目は険しさだけに行ってそれより外に甘くなる。己れの養老は尋常ならざる速さに厚く護られて、修理大夫殿が語った合評の「苛烈な言葉の嵐」とは無縁でいられた。
「それがしも拝見しとうございました」
場の流れが能に寄って、鵜飼又四郎が話に加わる。あの日、剛は又四郎を遠ざけた。人形遣いに遣われない人形になるために、鉄砲洲への同道を申し付けなかった。うがって捉えれば、独りで舞台を勤めたことへの不服を訴えているようにも取れるが、又四郎がそんな子供じみた真似をするわけもない。
「あるいは、これまで観たことのない養老を目にできたのではないかと」
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『赤毛のアン論』松本侑子・著
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