前回までのあらすじ
剛は藤戸藩において“能役者”を意味する“道具役”屋島五郎の長男として生まれた。しかし、幼くして母を亡くし、嫡子としての居場処も失う。以来、三つ齢上の友・岩船保の手を借りながら、半ば独学で能に励んできたが、ある日、頼みの綱であった保が切腹を命じられる事態に見舞われる。さらに、藤戸藩の御藩主が十六歳で急死し、急遽、剛が身代わりとして立てられることになる。そこには、保が遺した言葉と、小藩にとって唯一大名たちと近しくなることができる術が能であるという事情があった。能役者として評価された、それも他ならぬ保によって――そのことも後押しし、剛はひとまず役目を引き受け、江戸へと上がった。そんな剛に、目付の鵜飼又四郎と江戸留守居役・井波八右衛門は、江戸城内における「奥能」の存在について教示する。
たとえ反対されても舞台を勤めるつもりだったが、鵜飼又四郎は異を唱えなかった。ただし、両手を挙げてというわけではなかった。
「修理大夫殿のお招きを、辞退するわけにはまいらぬでしょう」
賛意も半ばという風である。
「意に染まぬか」
剛は問う。最初から「いっとう高い処」に的を据えている又四郎だ。本音では、要らぬ寄り道と踏んでいるのかもしれない。
「めっそうもございません」
けれど又四郎は、笑みを浮かべて答える。取って付けたよう、ではない。
「実は、本命の志賀藩の能がいよいよむずかしいようであれば、ひとまず他藩の能から取り掛かる手もあろうかと思っておったところでした」
そして、つづけた。
「志賀藩の外の目ぼしい大名能と申さば、修理大夫殿の豊後岡藩に加え、筑後久留米藩、播磨姫路藩等がございますが、それがしに選ばせていただくならやはり岡藩です。能との接し方に、他にはないものがございます」
「藩士がシテを勤められるとか」
相槌を打つくらいのつもりで口にしたのだが、又四郎は驚いた顔を向けた。
「真でございますか」
先刻承知と想っていたのに、又四郎でも知らぬことはあるらしい。
「修理大夫殿の口からお聞きした」
「諸役のすべてを藩士が演るのは耳に入っておりましたが、そこまでとは……。もはや、大名能を通り越しておりますな。岡藩の能には、志賀藩の能を取り仕切る三輪藩の望月出雲守景清殿も一目置かれている風な話も伝わってきておりますが、もしも事実であるとすれば、理由はそのあたりにあるのかもしれません」
「出雲守殿が」
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