それにしても、時代小説において、かつてこのようなテーマで女性が描かれたものがあっただろうか。いや、これが描かれた昭和二十五年当時、時代小説という枠組みを取り除いても存在していなかった世界ではないかと思われる。
この当時から、すでに山本周五郎は、時代小説か現代小説かとか、大衆小説か純文学かといった枠を超えた、先端的な「文学」の曠野をひとり走りはじめていたのだ。
この痛ましい物語には、菊千代の母親が死の間際に発した言葉の変奏である「可哀そうな菊さん……」という言葉が繰り返し現れ、冷たい霧のように世界を覆うことになる。
「その木戸を通って」
この作品は「菊千代抄」がそうだったように、時代小説というジャンルを飛び越えた、真に文学的な傑作だと思える。
記憶を喪失した若い娘が若い武士を訪ねてくる。娘は自分がどうしてそこに現れたのかの記憶もない。しかし、その娘、ふさの魅力に惹かれ、若い武士、正四郎は妻として娶ることになる。
やがて子供も生まれ、幸せを絵に描いたような、と表現できるような家庭に、ふと不幸の影が差す。それは、ほんの一瞬、ふさの、失われていた過去の記憶が甦るところから始まる。
その深夜のシーンは鮮やかだ。
《「ふさ」と彼はまた云った、「どうかしたのか」
ふさはじっと立っていて、それから口の中でそっと呟いた。
「お寝間から、こちらへ出て、ここが廊下になっていて」ふさは片手をゆらりと振り、なにかを思いだそうとして首をかしげた、「──廊下のここに、杉戸があって、それから」
正四郎はぞっとした。(中略)ふさは過去のことを思いだしたのだ、と彼は直感した》
そこから一歩一歩、不幸に向かっての歩みが始まるのだが、それがどのような不幸のかたちを取るのかがわからないまま、読者は息を呑むようにしてその破局が訪れるのを見守ることになる……。
そして、その破局を目の当たりにした読者は、また別の家で同じことが繰り返されるかもしれないという、無限連鎖の恐ろしさに身を竦ませられることになるのだ。 #3へつづく
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『赤毛のアン論』松本侑子・著
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