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登場人物ひとりひとりの「生」を肯定するかのような著者のまなざし

登場人物ひとりひとりの「生」を肯定するかのような著者のまなざし

文:江南亜美子 (書評家)

『太陽は気を失う』(乙川優三郎 著)

出典 : #文春文庫
ジャンル : #エンタメ・ミステリ

『太陽は気を失う』(乙川優三郎 著)

 じつは、この里帰りには、借金の申し込みという隠されたもうひとつの目的があったのである。しかもその借金は夫のふがいなさと見栄に起因するものだ。

 大地震と大津波と原発事故が同時に起きた二〇一一年の三月のあの日のことを、鮮明に記憶しているひとは多い。いまなお傷を抱え、絶望を重ねてきた数多くの被災者たちを前に、(芸術の)言葉はなにを成しうるのかという問いも、継続的に考えられてきた。文学は、悼んだり、奮起を促したり、悲しみからひととき目をそらしたりといった、即応的で、短く力強い言葉の働きからはすこし離れて、長い個別の物語を紡ぎ出すことへとだんだんに変化していった。その過程にはおそらく、フィクションを構築して、厳しい現実世界へ架橋することへの躊躇と逡巡も生まれたに違いない。

 それでも、著者はこの作品であの出来事を書いた。震災や原発事故の悲劇をセンセーショナルに、中心的に扱うのではなく、背骨があり、血も神経も通うひとりの人間がそれを経験したことで人生の転換期を迎えた、そのモーメントをとらえたのである。

 地縁が薄れていても起則くんのことは忘れなかった「私」が、過酷な被災状況にあって、夫の他者性に直面する。親の無力さにもまた。彼女はこの瞬間、時間が堆積して形作られてきた自分自身の「生」を、むなしく感じたことだろう。しかしそれに打ちひしがれただけでなく、夫との決別をも決意する。フィクションの力で、ある登場人物の人生がそこにまざまざと立体的に立ち上がるというのはひとつのマジックのようなものだが、それが可能になったとき、その物語は特定の場所や時代(この作品なら3.11)というくびきから解かれる。これがわたしやあなたの物語であってもなんら不思議でない、という普遍性を獲得するのである。

文春文庫
太陽は気を失う
乙川優三郎

定価:748円(税込)発売日:2018年09月04日

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