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『神様の暇つぶし』千早茜――立ち読み

出典 : #別冊文藝春秋
ジャンル : #小説

別冊文藝春秋 電子版22号

文藝春秋・編

別冊文藝春秋 電子版22号

文藝春秋・編

くわしく
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「別冊文藝春秋 電子版22号」(文藝春秋 編)

 ぐつぐつ煮える鍋の向こうで缶チューハイに頬を染め、何事もなかったかのように喋り、笑い合う二人が大人に見えた。

 私はきっと無理だ。今ここに、こたつの空いた場所に、全さんがかがむようにして入ってきたら。ぎょろりとした二重で私を見て、顔の半分でにやりと笑ったら。自分がどんな顔をするかわからない。なにもなかったことになんて、絶対にできないのは確かだった。

 だから、変わったのだと思った。あのひとに出会う前とは。触れられた自分と触れられる前の自分は違う人間なのだと。少なくとも、誰にも見せない顔をあのひとには見せた。こんな風にいきなり捨てられたのに、再び目の前に現れたら私はまた溺れる。体の底にその確証があった。どんなに憎んでも軽蔑しても呪っても、私の体はあのひとを待っていた。

 これこそが恋なのだと、半ば誇らしく、半ば絶望しながら、信じていた。

 冬の夜は長い。菜月が終電で帰り、食べるのに飽きた里見が読書に戻っても、私は麺を入れたり雑炊にしたりしてだらだらと鍋をつついていた。部屋は静かで暖かく、手酌でしたたかに酔って目をとじると、凍てつく冬の夜でも夏の夢をみた。

 揺れるゴーヤのカーテン、扇風機の唸り、蝉の声、しつこい蚊、スイカの赤と青くさい香り、がらんとした教室、窓の向こうの入道雲、ラジオから聞こえる高校野球、樹木の中の石段、桃の産毛、ビール瓶を傾ける筋ばった手。経験したいくつもの夏が混ざり合い、押し寄せてくる。裸足で畳を踏んで誰かがやってくる。黒い影がかかって、あのひとの声が聞こえる。

別冊文藝春秋からうまれた本

電子書籍
別冊文藝春秋 電子版22号
文藝春秋・編

発売日:2018年10月20日

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