前回までのあらすじ
藤戸藩の道具役(能役者)屋島五郎の長男として生まれた剛。しかし、幼くして母を亡くし、嫡子としての居場処も失った。以来、三つ齢上の友・岩船保の手を借りながら独学で能に励んできたが、ある日、頼みの綱であった保が切腹を命じられる事態に見舞われる。さらに、藤戸藩の御藩主が急死し、剛が身代わりとして立てられることに。そこには保が遺した言葉と、能が舞える御藩主を求める藩の事情があった。役目を引き受け江戸入りを果たした剛に、目付の鵜飼又四郎と江戸留守居役・井波八右衛門は、城内における「奥能」の存在について話す。その後、首尾よく奥能に繋がる人物と接触した剛は「内々の能」に誘われ評価を得るが……。藩主として、また、保に見込まれた人間として、己が使命をいかに果たすのか、剛の胸に様々な想いが去来する。
けれど翌朝、剛は鵜飼又四郎を呼ばなかった。
起きて支度を整え次第、言い渡すつもりだったのに、目覚めてみると固まっていなかった。
昨日、八右衛門が下がったときにはすでにあらかた締まっていた。あのまま呼んでもよかった。
あくまで念を入れてのひと晩で、ほとんど儀式のようなものだった。
なのに、まだ緩かった。
驚きもしたが、それ以上に訝った。
どういうことだと。
己れの想いの強さはなんら疑わなかった。もはや、そういう時期には居ない。
あまりに不測だったので、明日にはきっと、という楽観もしなかった。そして、そのようになった。
次の朝も、三日目の朝も、四日目の朝も、五日目の朝も、剛は又四郎を呼ぶことができなかった。
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