それ以外に「瓜生一等兵」に関する記述はなく、金田小隊長はマカオや香港に近い地となると、野良着のような恰好の原住民でも英語を話すのかと衝撃を受ける。
しかし一方で、それに応じて英語を話してしまっては、敵国イギリスの偉さばかりが引き立ってしまうのではないかと、小隊長は悶々とするのである。英国の将校は日本語などぜったいに学ばないし、ぜったいに話さないだろうと思うと、自分も八年間、英語を学んだけれども、それをここで原住民に知らせるのも国威を失墜させるような気がして、英会話は瓜生一等兵に任せた、という記述の中にのみ「瓜生」は登場する。
わたしはそのあと、ともかく「第十三中隊」の記録にしつこく目を走らせたが、英語を話す背の高い「瓜生」は、どこにもあらわれなかった。そして金田小隊長の日記もいつのまにか見当たらなくなる。
部隊はその後、香港を攻略し、ガダルカナルからラバウルへと、激戦地を転戦した。
香港は攻め落として意気揚々とした記述も目立つが、「餓島」と呼ばれたガダルカナルでの記録は、凄絶なものに変わった。昭和十七年十一月、部隊は上陸を果たすが、翌十二月にはすでに飢え始める。「糧秣はほとんど無給、木の芽、草の根、『トカゲ』、『モグラネズミ』、口に入るものはありとあらゆるものを食べ、燃料は椰子の実の干したものを、マッチ軸のように細い木片で燃やし」、水は「ボーフラが湧いていれば心配ない」ということで、浮いた木片や木の葉をかきわけて飯盒で泥水を掬って飲む。
そして砲弾にあたりもしないうちに、兵隊たちはぞくぞくと、マラリア、脚気、大腸炎のいずれかで死に至るのだ。
人数の減った部隊は、混成部隊として新たに編成され、ラバウルに向かうが、「第十三中隊」は昭和十九年三月に急遽クムクムという、ラバウルの主陣地を離れた場所での守備隊を命じられる。ここで、「第十三中隊」は、執念のように畑を作って穀物を収穫し、ワニを獲ってさばいたりしながら終戦を迎えるのだった。
昭和二十年八月二十三日に、オーストラリア軍に降伏した部隊は、占領下におかれ、翌二十一年、三月と四月に、復員部隊がそれぞれ浦賀と名古屋に到着している。
巻末の「第十三中隊」には、金田小隊長の名前があった。戦死者欄だった。
そして、生還者名簿の最後のほうに、瓜生平吉の名も(死去)という補足付きで記されていたが、住所や連絡先はわからなかったようだ。戦地から帰った彼が、いつ上野に出てきたのかは不明ながら、それはあきらかに昭和二十一年の春以降だったはずだ。
喜和子さんは、いったいどういう経緯で、いつごろからこの人物と暮らし始めたものか。それは赤い表紙の「聯隊史」をいくら睨んでもわからないことだった。
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