坂上友紀さん(本は人生のおやつです!!)
『渦』、読み終えましたーっ! 面白かったです!!!
まさか最後の最後で泣きもするとは自分でも思わず…!
(お佐久はんが墨すって、おきみちゃんが書き上げるとこを読んでると、突然込み上げてくるものが……)
最初は、「渦」がヤマタノオロチの渦的な、決して綺麗と一言では言えないけれども引き込まれる色味の、様々な色がひしめき合いすぎて、濃ゆくて紫に近いというか、濃い緑というか、そこに銀も渦巻いてる、みたいな色味に感じていたのですが、最後に感じた「渦」はむしろ白に近いような印象でした。なくなる前は、みんな仏になるってこういう感じ…?と思いつつ。
しかし、言葉を操るというのは世界を作る手段そのものなのだなぁと感じました。客観的な世界というのは実は存在せず、全ての世界は誰かの主観の元にしかあり得ない、という事実を思うと、言葉を読むことで頭に浮かんだ世界が、実在するのかしないのか、実在したのかしないのか……みたいなボーダーラインって、実はないのかもしれないと思ったり。
また、今回改めて映像と文章であることの違いについても考えました。もしかしたら映像のほうが、ある部分においてはありのままなのかもしれませんが、読むことで私の頭の中に生まれた世界が、実はほかの人が読むことで生まれた世界と一緒なのかもしれない、と想像する楽しみのようなものは、文章でしか味わえないし、そういうのが私は好きなんだ、と思いました。それにつけても、文楽について書かれていることが、私の中では本のこととリンクします。
専助が浄瑠璃から足を洗う理由も良くわかります。本屋を始めてから、純粋に読書を楽しむことができません。 読んでいても、あ、この本はうちでも入れようとか、あの人が好きそうだ、とか。そんなことばっかり思ってしまいます。子供の頃は物語に没頭して、それこそ本当に寝食忘れて読んでいたのですが、それほどの情熱、今はありません。それでもわたしは読むし、読むのが好きだし、そして読む以上にその本の持つ良さを伝えることが好きだから、本屋をしているのだと思います。本を読むだけで良かったら、本屋辞めてどこかに勤めに出て、好きな本買って読んでるもんなー、と思うのですが、なんかもうそういうことは出来なそうです。その方が色々楽やろなー、と思うのですが、それこそ本屋という渦に巻き込まれているということなのでしょうか…。その上、そうあることを既に良しとしてしまっているというか…。でも、そういうもどかしい気持ちも全部呑み込んで、続けて、それで最後にこれで良かった、と言えるような人生を私も送りたいです。
それにしても、渦って、なんなのでしょうか。呑み込まれるのが怖いような、他と渾然一体となれる優しくて穏やかなもののような……渦自体も自分と一緒に育っていくのですかね……どんな渦に最終的に呑み込まれるのか、精進のしどころなのかな、と思いました。呑み込んで、呑み込んで、何かを続けている人に読んで欲しい本だなと思います。
そして、言わずもがな大阪人にも読んで欲しいですー。大島さんが大阪生まれじゃないなんてー! 大阪の作家さんたちが「なんでワシが書かなんだんやー!」と地団駄踏みそうー、と思います。