「この国では、人が死んだ時だけは、あっさり物事が動くからね」
私が本を読むのに夢中になっている間に、平成くんは仕事を終えて家に戻ってきていたらしい。番組で着ていたジャケットを脱ぎながら、冷凍したブルーベリーをくわえている。本当は私が安楽死について調べていること自体、彼に知られたくなかったのだが仕方ない。
「もうお医者さんとカウンセラーには会ってきたの?」
「うん。でも秋葉原事件の後は、本当に形式的なチェックしかされないよ。僕の状態を話したら、特に問題はないって言われた」
「問題があるから、死のうとしているんでしょ」
よかった。昨日の夜に比べて、何の気兼ねもなく彼と死についての会話ができている。昨日から一睡もしていないのが逆に良かったのかも知れない。
「問題というか、死ぬのに一番いい時期にちょうど巡り会えたという感じかな」
彼は私のほうを見もしないで、Surfaceを広げてキーボードを打ち始めた。いつものように、パソコンに対して顔を斜めに傾けて、右目だけを突き出したような姿で原稿を書いている。いつの間にかミライはソファを離れ、平成くんの膝の上に乗っていた。ミライは、彼によくなついている。
まだ生きていた父が飼い始めたミライを、この家に連れてきてから1年半ほどになる。母が急に猫アレルギーになってしまったのだ。子どもは汚いと言って炎上したことのある平成くんが、ミライにどんな反応を示すか不安だったが、杞憂(きゆう)だった。彼はミライをかわいがり、自分の本の表紙にまで登場させる有様だった。「飼育代を経費で落とすためだよ」と言っていたが、私に隠れてミライの身体に顔を埋めている瞬間を何度か目撃したことがある。
平成くんは、『週刊文春』で連載しているエッセイを書いているようだった。しめきりは今日の15時のはずだ。死ぬことを考えている人間が、律儀にしめきりを守って仕事をする姿は滑稽にも思えた。
彼が本気で死ぬことを考えているとしても、それは今日や明日という差し迫った時期ではないようだ。そう思ったら、急にあくびが出てくる。
「今日の朝まで本屋にいたの?」
彼は視線をSurfaceのモニターに向けたまま、さも「全く興味はないけど一応聞いておくよ」といった態度で聞いてきた。
「このあたりに24時間営業の本屋さんはないよ。六本木のTSUTAYAでも朝4時まで。平成くんも知ってるでしょ」
「じゃあ、朝まで何してたの」
彼は少しの迷いもなくキーボードを打ち続ける。林真理子や西村京太郎には負けるのだろうが、彼の筆は同世代にしては速く、年間5冊ほどの本を出しているはずだ。こうして文章を書きながら、ひとと会話ができることを得意としていたが、どこまで本気で話を聞いているのかはわからない。私は彼の質問に答えず、KAREで買ったサイドテーブルに置いてあるグーグルホームに向かって話しかける。
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