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明晰な虚構の語り、文学だけが持ちうる倫理【作品論】<阿部和重『Orga(ni)sm』を体験せよ>

明晰な虚構の語り、文学だけが持ちうる倫理【作品論】<阿部和重『Orga(ni)sm』を体験せよ>

文:樋口恭介

文學界10月号

出典 : #文學界

『シンセミア』と『ピストルズ』、原稿用紙で総計二八〇〇枚を超える非実在の土壌の上に、一六〇〇枚を超えて芽吹く『オーガ(ニ)ズム』。繁茂する虚構の森。無数に伸びる枝葉の一つひとつが、あたかも一個の世界であるように、そこでは全てが語られる。そこには〈この現実〉以外の全てがあると言って過言ではない。そこにはノワール群像劇も、マジックリアリズムも、ロードムービーも、スパイ・アクションも、ミステリも、サスペンスも、SFも――種無しの雄しべが雌しべと交配するように――、あらゆるジャンルが複雑に絡み合い、一個の、「虚構」と呼ばれる「決して実在することのなかった生物」を生み、その生態系を育んでいる。そこにはそうした形でしか喚起することのできない風景があり情動があり快楽がある。そこには「ありえたかもしれないもう一つの現実」――バラク・オバマが救われ、オバマのアメリカが救われ、世界の危機が救われる並行世界――が描かれる。

 一方で、そこでは実際に発生した〈この現実〉だけが欠け落ちている。そこには世界的に広がる国粋主義の台頭もなければ文化集団間の深まり続ける軋轢もない。アメリカはどこの国にも国交を閉ざしていないし、多くの先進国を席巻する反リベラルの世相も描かれていない。どれだけ〈この現実〉に似ていようと、それはやはり〈この現実〉ではない。そこには明確な線が引かれている。そしてそれはまた、決して〈この現実〉そのものではありえない小説の担う、一つの役割でもあるのだ。

 阿部和重は物語の最後で、年老いたラリー・タイテルバウムを訪ねるためロサンゼルスに向かう。そのとき日本はアメリカに併合されており、阿部和重はオアフに住んでいる。解体され再構築された世界の中で、阿部和重はハリウッドを通りかかる。阿部和重はそこでHOLLYWOODの看板のLが一つ抜けてHOLYWOODになってしまっていることに気づく。種無しの雄しべと雌しべから生まれた『オーガ(ニ)ズム』という繁茂する虚構世界にあって、ハリウッドはハリウッドではなくホーリー・ウッド(=聖なる森)であり、小説の中の阿部和重/〈この現実〉のものではない阿部和重はそこに至って、自分が自分で改変し(それを忘れた)世界に迷い込んでいることに気づきかけ、そしてふたたび忘れてしまう。物語の後で、あたかも全ての危機が救われているように。つまり、虚構世界の登場人物たちは、書かれたことだけを知っており、現実世界の読者だけが、書かれなかったことを含め、全てを知っているのだ。

 現実――〈この現実〉の阿部和重はかつて、インタビューで文学について訊かれ、文学とは「紋切り型のイメージをずらす」ものであると語ったことがある。文学は言葉のイメージをずらし、現実のイメージをずらし、別様の可能性に光を当てるものなのだ、と。

 現実からわずかにずれること。そしてそこに新たな現実が立ち上がること。しかしそれは、〈この現実〉とはやはり――決して――同じものではありえないこと。つまり、〈この現実〉から別様の現実の可能性を汲み取り、物語として別様の現実を描き出し、描かれた別様の現実から、〈この現実〉の別様の可能性を再度投射すること。それが文学の担いうる一つの意義であると阿部和重は考え、そして本作を書いたのだ。

 現実と似た、時には現実よりも現実らしい、虚構と呼ばれるオーガニズム。リアリズムの森。無数に伸びる可能世界の枝葉。そこでは書かれたものが明晰で、書かれた可能世界が強固なものであればあるほど、書かれなかったものの別様の可能性へのまなざしもまた、強く、多様なものとなる。文学は、それに触れる者に、可能世界に思いを馳せさせ、思弁を促し、この世界そのものへのまなざしを変えさせる。そしてそこに、虚構である文学の、どこまでも虚構でしかない文学だけが持ちうる倫理があることを、本作はわれわれ読者に教えている。

 こうしてわれわれは結論に至る。『オーガ(ニ)ズム』という一つのありえた世界は、本の中からわれわれに語りかけている。つまるところ、ラリー・タイテルバウムと阿部和重は本作の中で本作の中の世界を救ったが、次に、あなたの世界であなたの世界を救うのは、あなた自身なのだ、と。

 むろん、この文章もまた、生態系を成す巨大な生物の、無数に伸びる枝葉のうちの、たった一つの虚構のあり方にすぎないのだが。

文學界 10月号

2019年10月号 / 9月6日発売
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単行本
オーガ(ニ)ズム
阿部和重

定価:2,640円(税込)発売日:2019年09月26日

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