作家としての真摯な姿勢の力強さに、ぼくは敬服しました
複雑な状況と人間関係の下に生きている現代のわれわれは、その原初の感情を失ってしまいましたが、ブロニスワフはその感情に突き動かされてチュウルカたちの生存の熱を身に浴び、そこから彼は希望を与えられ、生き直します。ヴラジヴォストークで行なわれたロシアの地理学協会でのブロニスワフの講演会で、彼が質問者に答えることば、未開人と呼ばれる種族の「彼らは生きています」「サハリン島には支配されるべき民などいませんでした。ただ人が、そこにいました」という主張は、そのままにこの作品の全体に、静かに力強くひびきわたっています。そのまっとうな主張を、悪くするとヤボと言われかねないその主張を、正面切って小説作品に仕上げた作者の、作家としての真摯な姿勢の力強さに、ぼくは敬服しました。
しかもその作品には、ブロニスワフが政敵となった弟の配下で、かつては友人でもあった男との悲劇的なドラマと、樺太の自然とヤヨマネクフたちアイヌの暮らしがかもしだす独特の詩情が相まって、まったく既視感のない作品世界が展開されています。登場するアイヌたちもそれぞれに魅力的な人物として造形されています。人が生きているということの困難と勇気が、静かに、ときにはユーモラスにも語られていて、その筆運びもこの作品の持つ大きな美点ではないでしょうか。
序章に登場する女性の赤軍クルニコワ伍長の殺伐とした心象が、終章でのアイヌのイペカラとの出会いで、生きていくことのほうに心が向くところも、とても印象的で、この作品にはこれ以外の終り方はないだろうと思えるほど心にひびくものがあります。ナチスドイツとの戦いで百七人のドイツ兵を撃ち殺した若い赤軍女性伍長と、五弦琴を心の慰めに、ひたすら闊達に純朴に、生きつづけることだけを追い求めるイペカラとの取合わせだけに、クルニコワ伍長の心のゆらぎは象徴的です。ぼくはクルニコワの心の行く先に回心を予想しました。
ぼくはいわゆる歴史小説の良き読者ではありませんが、この作品にはこれまで例のない、今日的な問題意識を持った新しい視点を感じて引き込まれました。考えてみれば、祖国を奪われていた時代に生きた一人のポーランド人と、樺太のアイヌとのマッチングそのものが、すでに十分に物語的ですよね。雑駁な読後感ですが、注目すべき意欲作だと思います。ひとまずお礼まで。
勝目梓
※本記事は編集者宛届いた私信を勝目さんの了承を得て掲載しました
勝目梓(かつめ・あずさ)
1932年東京生まれ。様々な職業に就きながら、同人誌『文藝首都』で中上健次らと研鑽を積み、芥川賞候補にも挙がる。1974年「寝台の方舟」で小説現代新人賞受賞。以後、バイオレンス、サスペンスをはじめとする幅広い分野で活躍。2006年の初の自伝的小説『小説家』を発表。以降も旺盛な執筆意欲は衰えず、近著に『あしあと』『異端者』などがある。
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