見上げると、先に教室に戻ったみんなが、二階の窓から身を乗りだして、七未に向かって手を振っていた。
「がんばれ、がんばれ」
「ナナちゃんがんばれ」
「がんばれ、がんばれ」
「ナナちゃん、はやく」
七未の名前は、「七未」と書いて「ナミ」と読むのだが、子供時代は、ナナちゃんの愛称で親しまれていた。
「がんばれ、がんばれ」
「ナナちゃんがんばれ」
「がんばれ、がんばれ」
「ナナちゃん、はやく」
この時、みんなの手に何か小さなものが握られていたことを、七未は見逃さなかった。その小さなものが何なのか、七未は一目見てすぐにわかった。ビスケットだ。動物の形をしたビスケット。
みんなはビスケットを握っている。そしてビスケットを握っていないほうの手には、マキ先生が注いでくれた牛乳の入ったコップを持っている。
「がんばれ、がんばれ」
「ナナちゃんがんばれ」
いつのまにおやつの時間になったんだろう、と七未は思った。
みんなは、動物ビスケットをかじりながら、そして冷たい牛乳を飲みながら、園庭にいる七未に向かって声援を送っているのだった。がんばれ、がんばれ、ナナちゃんがんばれ。
職員の誰かが通報したのか、その後、園庭に入ってきた二人の警察官によって園長は取り押さえられた。人が手錠をかけられる瞬間を幼き日の七未は間近に見ていた。ケガはないか、どこか痛くないか、警察官から質問されたが、七未は首を振って、「ない」とこたえた。みんなと違って、七未は無傷だった。園長の投げたどんぐりは、七未にだけ、ついに一個も当たらなかったのだ。
「どんぐり事件」と名付けられたこの一件は、しばらく地元民たちの間で話題となった。これだけインパクトのある出来事も、半年もたつと人々の記憶から徐々に薄れていくものなのか、翌年の春には親も子も誰も口にしなくなっていた。事件の記憶をそっと胸の奥に仕舞いこんだまま、七未は卒園の日を迎え、四月から小学生になった。
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