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ジョン・フォード論 第一章-I  馬など

ジョン・フォード論 第一章-I  馬など

文:蓮實重彦

文學界2月号

出典 : #文學界

「文學界 2月号」(文藝春秋 編)

I 馬など

 

艶やかな毛並みに導かれて

 

 何頭もの馬が群れをなし、あるいは一頭だけ孤立しながら、放牧地でのどかなときをすごしている。(註1)それぞれの馬が全身で、あるいは横顔として無理なく画面におさまっているその構図から、この動物たちのたたずまいと初めて向かいあいつつあることの興奮を鎮めようとするかのように、キャメラが穏やかにその被写体をフィルムにおさめてゆくのがわかる。しかも、その穏やかさは、思いきりのよいショットの厳密さをいささかもそこなうものではない。この穏やかな厳密さ、あるいは厳密な穏やかさともいうべきものは、ことによると、映画だけに許された特権的な資質なのかもしれない。

 そのようにして撮られたフォードの『香も高きケンタッキー』(Kentucky Pride, 1925)の冒頭の数ショットを目にしただけで、誰もがたちまち快い錯覚へと誘いこまれる。その錯覚は、まず、映画のキャメラというものが、馬という名の四つ足動物をごく自然にフレームにおさめるために発明された装置にほかならぬという確信となって、映画史的な常識に揺さぶりをかける。

 実際、ここでの馬たちは、立っていようと横たわっていようと、動いていようとその場に佇んでいようと、そのうちの二頭が後ろ足で立ちあがって戯れに争いあっていようと、あるいは無数の群れとなって原野を木立沿いに思いきり疾走していようと、いずれもスタンダード・サイズと呼ばれる1: 1.33の画面にぴたりとおさまっている。しかも、馬たちの屈託のないたたずまいをとらえた映像がいささかも音声の再現をめざしていないのは、ここでのこの家畜たちが、音として響かぬ内面の言葉で意志を伝えあっているからだという確信となって、見るものの心を震わせる。というのも、このサイレント映画では、生まれたばかりの雌の仔馬のモノローグが字幕画面に文字として流れてくるからである。

文學界 2月号

2020年2月号 / 1月7日発売
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