特集

日本蒙昧前史

文: 磯﨑 憲一郎

文學界3月号

「文學界 3月号」(文藝春秋 編)

 幼い頃の元日本兵は、背丈も小さく、無口で、しょっちゅう風邪をひいてばかりいた、そういう子供が受ける仕打ちは、昔も今も変わらない、近所の子供たちからは「親なし子」と呼ばれ馬鹿にされ、履物を隠されたり、背中を小突かれたりして苛められてばかりいた。母親は息子を実家に置いたまま、名古屋の材木問屋に女中奉公に出てしまっていた、絹という名の、元日本兵にとっては従姉(いとこ)に当たる五歳年上の少女が唯一、面倒を見て、可愛がってくれた、下腹が痛いと唸りながら、廊下の隅でうずくまっている従弟の背中を、絹は優しくさすってくれた、腹痛はなかなか治まらなかった。「ここで横になって、待っていなさい」医者か、薬屋でも連れてくる積もりなのであれば、むしろ子供が恐れたのは、痛みがあっけなく消え去ってしまうことの方だった、しかし半日経っても、絹は戻ってこなかった、夕方になって彼女から手渡されたのは、薄い半透明の紙に包まれた、炭を砕いたような茶色い粉だった。「熊(くま)の胆(い)だから、我慢して飲みなさい」しかし薬は余りに苦く、従姉がこれを手に入れるために費やした苦労を思えば覚悟を決めて飲み込むしかないと子供心にも分かってはいたが、半分ほどを吐き出してしまった、それでもその日の晩には下腹の痛みは治まっていた、絹は額が広く小太りで、器量好しの娘ではなかったが、大人びた落ち着きがあった、十四歳で奉公に出るとほどなく良縁に恵まれ岡崎の石材店に嫁いだのだが、幼い二人の子供を残したまま、彼女もまた、交通事故で亡くなった、勝太郎(かつたろう)の歌う『東京音頭』が日本じゅうで大流行していた、暑い夏のことだった。元日本兵が十二歳のとき、奉公に出ていた母親が再婚することになった、息子は新しい家庭に呼び寄せられたが、どういう行き違いがあったのか、継父の両親と義兄からは、お前はどこの家の者かと怒鳴られ、睨みつけられた、家族と一緒の食卓に着くことは許されず、学校を休んで家業の手伝いをさせられることもしばしばだった、厄介者扱いされるであろうことはある程度覚悟していたが、もはや子供ではない分、その差別はより耐え難かった、継父は善人というよりお人好しで、息子となった彼を庇(かば)ってはくれたが、両親に逆らうことはなかった。高等小学校を卒業すると同時に、彼は家を出ると宣言した、もう何年も前から決めていたことだった。「家鴨(あひる)の子は生みっぱなしにされても立派に育つという。

 

この続きは、「文學界」3月号に全文掲載されています。

文學界 3月号

2020年3月号 / 2月7日発売
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