昨日から、ホテルの部屋で夫の体調をおもんぱかって、のみものをつくったりしながら、志手が想起していたのは、あの邸宅――折尾が父親から受け継いだ、築三十年のものだけあって、梅雨どきに不快な湿気が立ちのぼることはあるが、その時期以外は一年を通して日当たりのよい居間、窓から窓へとゆきわたる、さわやかで乾燥した空気と身体を巻きとる強い風、ほろほろとくずれる赤い土くれの焦げたような香りだった。書斎ではない、かと言って、応接間と言うほど立派なものではない、市街地から海まで眺められる、八畳くらいの部屋があった。
結婚と同時に志手が住むようになって以来、彼らは、その一画に、黒い毛の長い兎を飼っていたが、一か月ほどまえに胃をわるくして、死んでしまった。
「あなたは、あそこの机でものを書いてるときが一番いいわ。」
と、志手はほほえみながら言った。
折尾は、次々に仕事に追われる、いそがしい生活のことを思った。そして答えた。
「あと、三日だけ、ここでゆっくりしよう。部屋はおさえてある。」
紅茶を二杯のんだあと、彼は志手を庭園へさそった。彼女は、もうすこしここですごす、と答えた。朝食のあとの数時間は夫にひとりでくつろがせたほうが、一日を通じて機嫌がよいことを知っていたからである。
折尾は立ちあがったが、このとき、ほんの一歳くらいの子どもが、母親の手をのがれて、人群れのあいだから走りでてきた。
子どもは、あらぬ方を見て笑いながら、よちよちと突進し、折尾のひざのあたりにぶつかり、床にべっとりと尻をつけて、すわりこんだ。子どもを抱いて、うろたえている母親に相対して、折尾の白橡(つるばみ)色の額は、煩わしそうに数本のしわをあつめた。だが、彼はすぐに、おどけたしぐさで会釈を送り、お子さんにお怪我はありませんか、とたずねた。
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