母親はいっそう恐縮したが、それは、日本人にしては大柄で骨太な折尾の体格のためというよりは、彼を特徴づけていた声――或る女性が「ぞわぞわさせる声」と形容した声――によるところが大きい。
ちょっときいたかぎりでは、それは、社交性と内なる反骨心がほどよく調和した、三十歳にさしかかったばかりの男性にはありがちな声に思えるのだが、よく耳をすませると、彼の声調には、真水の湧きでる井戸の漆黒の波面のように、無数の微妙な変化がちりばめられ、冗談のさざ波が常にまとわりついていた。その不穏なさざ波が、ぼやぼやしている人を突然おどろかせるような、とてつもない爆発に転じかねない、という感じを、母親は抱いたのだった。
だが、これはみんな一瞬のできごとだった。
志手は母親にほほえみかけながら、テーブルに片肘をのせて、夫の平静な肩が人群れを割るのを見送った。
夫の皮膚の色は明るい灰色がかっているから、窓外の景色を背景にすると、いっそう垢ぬけて見える、と彼女は思った。――きっと、講演の疲れがまだ残っているのだ。この街の空気も、あながちわるいわけではないだろう。
そのとき、彼女の爪先につるつるとすべる物があった。
彼女はクロスの下にもぐりこみ、山羊革の手帳を拾いあげた。それは、夫が落としていったものだった。
夫の手帳を手にするのは、はじめてのことだった。
彼女は長いくびをかしげ、どんなものでも最後からよむ癖があったので、なにも考えず、うしろからめくった。
そして、背表紙から一枚めくった白い空虚の中央に、Ateという文字が浮いているのを見いだした。
それは、夫の手とは思えない、特有のまるみの強い文字で、青みの強いボールペンで筆圧強く記されていた。伏せられた暗号、もしくは、紙のあいだにそっとはさまれた不吉な予告のように、インクがかすれて切れ切れになったeの端が、だらしなく罫線の上を這って、のびでていた。
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