夫は、京都で講演をすませた次の日には、神戸へもどるはずだった。
だが、講演の翌朝、体調がおもわしくないと電話してきたので、彼女は心配して、夫をむかえにきた。それが、昨日の昼のことである。
彼が訴えているのは、胸がつまるような、漠然とした気分のわるさだった。夫自身には、医者にかかるほどのことには思えなかったし、志手もそれに同意した。講演の日は、ちょうど梅雨入りだったから、湿気がわるさをしているんだろう、と思いながら。
しかし、夫は腰をあげる気配はなかった。
二日前に所用がすんでいるのに、何を好きこのんで、この湿っぽい街にとどまりつづける必要があるのだろうか?
夫があらわれた頃には、食事会場には人があふれ、空気は人声にみたされて絶え間なく波打っていた。
「待たせた。」と言ったものの、彼は給仕が勧めた椅子に腰を下ろそうとせず、臙脂色のジャケットは手にもったままで、目はらんらんとしていた。
志手はかるい調子で言った。
「どうしたの、変な顔をして?」
折尾(おりお)は、周囲のテーブルにたべちらかされた皿を見つめながら、言った。
「おまえに、わるいことをしてるよ。」
志手は冗談めかして言った。
「わるくはないでしょう。この街の、よどんだ空気のせいよ。もう、『はやばやと』というわけにはいかないけれど、お昼くらいに切符をとって帰らない?」
そのことばは、ひと月前に完成したばかりの、夫の著作『人生の祝祭をはやばやと去る者』にかけて、というよりは、六甲山麓の邸宅へ抱いている愛着が、やむにやまれず、彼女の口をついて出てきたのだった。
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