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カレオールの汀(みぎわ)

カレオールの汀(みぎわ)

文:髙尾 長良

文學界4月号

出典 : #文學界
ジャンル : #小説

「文學界 4月号」(文藝春秋 編)

 夫は、京都で講演をすませた次の日には、神戸へもどるはずだった。

 だが、講演の翌朝、体調がおもわしくないと電話してきたので、彼女は心配して、夫をむかえにきた。それが、昨日の昼のことである。

 彼が訴えているのは、胸がつまるような、漠然とした気分のわるさだった。夫自身には、医者にかかるほどのことには思えなかったし、志手もそれに同意した。講演の日は、ちょうど梅雨入りだったから、湿気がわるさをしているんだろう、と思いながら。

 しかし、夫は腰をあげる気配はなかった。

 二日前に所用がすんでいるのに、何を好きこのんで、この湿っぽい街にとどまりつづける必要があるのだろうか?

 夫があらわれた頃には、食事会場には人があふれ、空気は人声にみたされて絶え間なく波打っていた。

「待たせた。」と言ったものの、彼は給仕が勧めた椅子に腰を下ろそうとせず、臙脂色のジャケットは手にもったままで、目はらんらんとしていた。

 志手はかるい調子で言った。

「どうしたの、変な顔をして?」

 折尾(おりお)は、周囲のテーブルにたべちらかされた皿を見つめながら、言った。

「おまえに、わるいことをしてるよ。」

 志手は冗談めかして言った。

「わるくはないでしょう。この街の、よどんだ空気のせいよ。もう、『はやばやと』というわけにはいかないけれど、お昼くらいに切符をとって帰らない?」

 そのことばは、ひと月前に完成したばかりの、夫の著作『人生の祝祭をはやばやと去る者』にかけて、というよりは、六甲山麓の邸宅へ抱いている愛着が、やむにやまれず、彼女の口をついて出てきたのだった。

文學界 4月号

2020年4月号 / 3月6日発売
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