硬く息を詰めた頁の虚空をよみながら、志手はたっぷりとした純白のカーディガンの袖をテーブルの下に引きこみ、方向の定まっていないものをむりやり会得したような、莞爾たる表情を浮かべた。それは、彼女が折尾との生活のうちに身につけた、無力な媚だった。
この空虚を埋めるべきものをさがし求めて、彼女は記憶のなかにごちゃまぜに投げこまれていた秀麗な筆記体の疑問文――この状況においては、気恥ずかしくなるほど、手本の活字どおりの――を、人差し指の先ですくいあげた。
……誰が《たべた》のか? だが、記された字を荒々しく虚空のなかに保たせている自立性が、彼女から、その弱弱しい問いをうばい去った。ありふれたことばを、わざとローマ字で書いてあるのかもしれない、と彼女は考えた。酒のアテのことだろうか? それとも、人の名?……
彼女は椅子を引き、鍵を手にした。
人の出入りはいっそうせわしなかった。
会場の出入口を彼女がとおりすぎたとき、支配人らしき男性が、炭酸水のボトルを手にしたウェイターを呼び止めて、憤懣やるかたないという表情ながら、古めかしく耳に心地よい声で、いくつかの注意をあたえた。彼はウェイターを叱責しているわけではなくて、青年に対して、或る工夫を助言しているかのようだった。ウェイターは、競走馬のように美しくととのえた頭をわずかに反らせた。
意味ぶかい一瞬の沈黙を置いて、《アーテー》の……、というかすかなささやきが、さざめく人声の合い間に散った。
志手がそれに気づいたのは、彼女が出入口から数歩はなれたときだった。彼女は、そのことばのまっすぐに独立した響きを、ひとつの旋律のように聴きとった。
笑顔の会釈をやりすごしながら、彼女はこの孤独な謎解きにうっかりと手を貸したあのウェイターを、あまりに不用意、かつ不謹慎に思った。
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