「もうすこし時間が要ります」聖は煙管の雁首に莨の葉を詰めると、倦んだ眼差しでしどけなく足を崩し、紫煙を吐き出した。「胴体が二つになってもおかしくない刀傷だったのだから。効を奏するかは龍之助さん次第でもあるのだけれど……」
纐纈城への潜入において、最も深傷を負ったのが机龍之助だった。湖の此岸にたどり着いたのちに卒倒し、聖の治癒の能力をもってしても一進一退がつづいている。
たとえ血の恩寵に与った者でも、深甚な傷を負えば危篤におちいるのだ。不老であっても不死ではない。そうしたことを翁も云っていた憶えがあるが、ちゃんと聞いてなかった。ぼさっとしていた。こうして死線を彷徨っている机龍之助を目の当たりにして、坊っちゃんはあらためて自身の境涯への理解を深めていた。
「さて、ご老公やマロ公はどのあたりにいるかね」
翁たちは、すでに出立していた。
陸軍参謀本部の密使を追いかけて、近畿方面へ向かっていた。
手負いの机龍之助、女二人と坊っちゃん、これを浜松の宿に残したのは翁の采配だった。
ここからの事の推移はめまぐるしいものになるだろう、と翁は予言していた。机龍之助は傷の治療に専念させなくてはならないし、東京の動きも気にかかる。ゆえにここは大所帯で連れ立つのではなく、数手に分かれて、起こる事態に臨機応変な対処をするのがよろしかろうと。
さしあたって坊っちゃんは、東京方面から下りてくる使者と落ち合うように指顧されていた。隠密や間者のたぐいか、ただの小間使いか、とにかくその使者とやらに会って情報を攫むようにと申しつけられた。何だおい、そんな役はおれじゃなくてもよかろう、と坊っちゃんは云わなかった。突進する巨象の背中で振り落とされないようにするのも骨が折れる。無鉄砲だの勇み肌だのとあげつらわれてもそれは人間での話だ、怪物の群と伍する胆力はない。前線を外れることにも特段の文句はつけなかった。
* 八幡の藪知らず 千葉県市川市八幡にある「ここに足を踏み入れると二度と出てこられない」という伝承で知られる雑木林。現在でも地元民によって禁足の地とされている。夏目漱石『虞美人草』などで「わけのわからないところに迷いこむ」ことの喩えとして出てくる。
-
『赤毛のアン論』松本侑子・著
ただいまこちらの本をプレゼントしております。奮ってご応募ください。
応募期間 2024/11/20~2024/11/28 賞品 『赤毛のアン論』松本侑子・著 5名様 ※プレゼントの応募には、本の話メールマガジンの登録が必要です。