「家族」という言葉が難しいのは、肉体と直結した単語ではないからではないか、と考えることがあった。夫婦間にはセックスがあるが、ない場合もある。子供と親の関係を考えても、肉体以外の関係性のほうが鮮烈に浮かんできてしまう。だから、自分自身の肉体に問いかけてそこから糸口を見つけることができない。手ごわい言葉だと、ずっと思っていた。
しかし、それが浅はかで、間違っていたことに気付かされた。「家族」という関係性の中で肉体がどうなっていくか。この物語を読んで、自分の細胞が、歪んだ場所から正しい位置へと戻っていく感覚があった。
この物語の中心になる「家族」は、玉藻学園の高等部、二年四組のクラスメイトである三人の女子高生だ。舞原日夏を「パパ」、今里真汐を「ママ」、薬井空穂を「王子様」とした疑似家族は、彼女たち自身がそう名乗り始めたわけではない。語り手である彼女たちのクラスメイト、「わたしたち」が、三人を相手に妄想し、そう呼び始めたのだ。
「わたしたち」が特定の「わたし」が自分と仲間を複数形で示しているわけではなく、本当に「わたしたち」なのだと気が付くのに、少し時間がかかった。物語には、はっきりとこう綴られている。
「わたしたちは小さな世界に閉じ込められて粘つく培養液で絡め合わされたまだ何ものでもない生きものの集合体を語るために「わたしたち」という主語を選んでいる。」
いったん理解すると、この「わたしたち」という主語がとてもこの物語にふさわしいと気が付く。「わたしたち」は「もちろんわたしたちは現場にいたわけではないので、これは虚実まじえた想像上の場面である」「その胸中をわたしたちはこれまでの想像を踏まえて新たに創作する」と、極めて自覚的に、「目撃」した光景を妄想で膨らませながら、「わたしたちのファミリー」を見守り続ける。
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