男らしさ、女らしさは0と1のような二項対立ではなく、連続体として重なり合っている。性差というのは、定義上、「平均的な男」と「平均的な女」の統計的な差異のことだ。
その一方で、女集団には「男っぽい女性(右端)」から「女っぽい女性(左端)」まで、男集団にも「男っぽい男性(右端)」から「女っぽい男性(左端)」まで、さまざまな個性がある。「集団内のちがい(ベルカーブの幅)」の方が、「集団間のちがい(平均値の幅)」よりも大きいのだ。
ここまではきわめてまっとうな理屈だが、問題なのは、「だから男女の生物学的な性差など論じる意味がない」という奇妙な結論に飛びつくひとがいることだ。それも、ものすごくたくさん。
「男らしさ、女らしさは文化的・社会的につくられた」という立場が「社会構築主義」で、「男女に生得的な性差があったとしても、そのちがいはわずかだ」と強調する。これも間違いではないものの、そのわずかな性差に男女で一貫した傾向があった場合、それが累積して大きなちがいになる。
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