別冊文藝春秋

『シェルター』甲斐さやか――立ち読み

文: 甲斐 さやか

電子版32号

「別冊文藝春秋 電子版32号」(文藝春秋 編)

 壁に描かれた細い線が見えた。長方形のあれは、切れ込みだろうか。ドアの輪郭のようでもあるが、壁と同色で段差も取手もない。横のパネルにガイドは素早くカードキーを走らせた。これで解錠されたらしい。切れ込みを押すと、平たい闇が見える。何かが弾けるような金属音が鳴り、無数の蛍光灯がついた。照らし出されたのは、白いタイル貼りの長い廊下だった。

 内部はやけに静かで、歩き始めると靴のゴム底の擦れる音が、気恥ずかしい位に響く。並んで歩くと、ガイドの背の高さが気になった。優に百七十センチを超えている。

 廊下の途中にガラス扉があり、ガイドは再び首から下げたカードキーを出して、解錠した。ガラス扉を過ぎた先に、着替え室と書かれた部屋が見えた。

「ここでまず、着替えてください」

 真っ白なロッカーが二列に並ぶ、こぢんまりとした部屋で、ガイドは十三と書かれたロッカーの前に佐和子を促した。

「袋に着替えが入っています。自前の服や荷物はロッカーに入れてください。靴はロッカーの下段に入っている運動靴に履き替えて。貴重品類とロッカーの鍵はこちらで預かります」

 ガイドはそのまま無表情でこちらを見ている。着替えまで監視されるのか。佐和子は紙袋から新品の白いブラウスと、白のロングパンツを取り出して、穿いてきたロングスカートの下にパンツを穿いてからスカートを脱いだ。薄紫のニットを脱ぐとき、埃の匂いが鼻を掠めた。着替えもなくなって、二、三日同じものを着ていたからだ。

 ガイドが無言で佐和子の耳と手を指し、装身具を外すように指示した。肌身離さず着けていたダイヤのピアスと指輪を外して、ロッカーの引き出しに入れた。さらに携帯電話と化粧ポーチ、それから身分証やクレジットカードの入った財布まで、没収されてしまった。ガイドは最後に、バッグに取り残された老眼鏡をつまむと紙袋に入れ、佐和子に渡した。

 着替え終わると、再び廊下を歩いた。突き当たりのドアの前で入念に手の消毒をして、中に足を踏み入れる。

 眩しい。佐和子はそう思った。ぽっかりと円形に広がる空間が見えた。そこに佇む十人ほどの輪郭が目に入る。輪郭を溶かす程の、強烈な光に心臓が高鳴り、思わず眉の上に手を翳す。その先の庭にも、数人の姿が見えた。

 輪郭が一斉にこちらを振り返った。佐和子は息を呑む。全員が、同じ白い服を着た、女だった。


 厚生労働省によって運営されている女性と子どものための保護施設、それをシェルターと呼ぶのだと、ガイドは言った。

 いまいるのはシェルターの事務室で、さっき見た円形の広間に隣接している。広間との間の壁は半分以上がガラス張りで、広間はもちろん、その先にある大きな庭まで見通せた。

 高い壁で囲まれた庭に、白い女たちが奇妙に群れていた。外からはこの高い壁しか見ることができない。それゆえに四角四面で窓も無く、鋭利な緊張感が漂っているように見えた。

 比べて内部の印象は、だいぶ穏やかといえた。広間をぐるりと囲んだ窓の大半は庭を向き、陽光が広間の隅々まで行き渡っている。

別冊文藝春秋からうまれた本

別冊文藝春秋 電子版32号(2020年7月号)文藝春秋・編

発売日:2020年06月19日


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